私の名前は、会ったこともない映画プロデューサーのおじさんがつけました。

そのことを、その方がご存命なら100歳になる2023年、父から初めて聞きました。久保圭之介さんという方です。彼は、父が20代の時イタリアで会った旅人で、会ってすぐ意気投合した二人は、その後ポルトガルまで数週間、車で旅を共にしたそうです。帰国して20年、久保さんが父の陶芸アトリエを訪ねて奇跡の再開を果たし、母のお腹にいた子に名前をつけてくださったそうです。

そんな人からもらった「碧(みどり)」という名前ですが、実は高校に入るまで自分の名前が好きではありませんでした。恥ずかしくて緑色の持ち物を避け、みどりの日は毎年憂鬱でした。

中学校までは「みーちゃん」と呼ばれていました。それなら、みさきちゃんかみのりちゃんかわからないし、当時、周囲から浮くことを何よりも恐れていた私は、そのちょうどいい”よくある愛称”を心地よく感じていました。周りの平均値を取ったものが自分の意見と思っていて、みんなに気を遣うみーちゃんは、程よく周りからも好かれていました。

三鷹育ちの一般生、海外にルーツもなかった私は、夢だったICUHSに入学して、まずは学校に馴染むために空気を読もう、と意気込んでいました。しかし、登校初日から、それがいかにバカバカしいことか気づかされます。それぞれのアイデンティティーのぶつかり合いと、どんな人でも輝いているまま受け入れられる空気感に、今までの戦い方とは明らかに違う…と戦慄したのを覚えています。

新入生歓迎会は衝撃でした。当時の生徒会長はバーレーン帰国のモヒカン頭で、大きい声で手短に挨拶した後、「これがICUだ!」と言って、ダンスやチア、音楽などのパフォーマンスが始まったのです。オーディエンスは、名前を叫んだり指笛を吹いたり、本気で楽しんでいるように見えました。この時、いつかあっち側で名前を呼ばれたい!と思った私は器楽部に入り、3年間ジャズの楽しさに陶酔するのでした。

初日のクラスメイトの自己紹介もよく覚えています。髪が天パなのでボンバーと呼んでください。とか、英語で自己紹介をした女の子とか、その日以来既定の制服を着用することはなかったおしゃれな華ちゃんとか。一人ひとり自信満々に自己紹介していて、それだけで面食らいました。

その時になぜ自分でみどりと名乗ったのかは覚えていませんが、それから30歳の今まで、私はみどりと呼ばれています。高校の時から仲良くしてくれているみんなのおかげで、いつからか自分の名前が好きになりました。新小金井駅前の生垣の立て看板「みどりを大切に」の横で、友達とヘラヘラ笑う自分の写真が手元に残っています。

私はライフワークとして、自分が死ぬまでに、生まれた時よりも地球を良い状態にすることを掲げています。数年前ガーデニングと土いじりにハマってからは、パーマカルチャーという考え方に傾倒して、自然と人間が共存するデザイン手法を勉強しています。将来は自分で作った野菜やフルーツを食べ、部屋を観葉植物でいっぱいにして、休みの日はサーフィンやハイキングで地球と戯れ、ヤギやニワトリと暮らすのが当面の夢です。まさにみどりいっぱいの暮らしを体現したいと思っています。

父親から受け継いだ旅好きが高じて40ヵ国ほどいろんな国に行きましたが、どこの国でも、「私の名前は日本語でグリーンという意味。私と友達になったなら、あなたも地球にやさしくしてね!」と自己紹介しています。

こんなに長いナルシシズム満載の文章を、ここまで読んでくださったあなた、ありがとうございます。あなたもぜひ、私と友達になってください。そして、みどりを大切に、地球にやさしくしてもらえると嬉しいです。