「隠れ帰国」をやめるまで

ハンドボールシンガポール代表の西村翔君からバトンを受け取りました32期の水野賢人と申します。西村君は卒業してから人づてに兵役に行ったことは聞いていたのですが、無事に兵役を終えられたこと、そして高校の頃からその名を馳せていたハンドボールで今も活躍していることを知ることができ、感激しています。自分には西村君のような熱い青春も過酷な経験もありませんが、ICU高校への感謝の気持ちは一緒です。その思いを何らかの形で残したく、今回筆を取った次第です。

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私はアメリカのニューヨークからの帰国生だが、ICU高校には一般受験を経て入学した。そのため、在学中は「隠れ帰国」という括りの中にいた。この「隠れ帰国」という言葉は、かつての私を実によく表していると思う。
ニューヨークから帰国してすぐ、日本の小学校で、初めて掃除の時間を経験した時のことだった。それまで掃除は学校のスタッフが行うものだと思っていた私は、級友たちがいそいそと机を下げ箒を手に取る中、どうしていいか分からず立ち尽くしていた。そのことを詰問されると、私はそのような習慣のない土地からきたために戸惑ってしまった、という意味で、まだ拙かった日本語で「帰国生だから」と言ってしまった。
すると案の定、「帰国生だろうがなんだろうが掃除しろ」と言われてしまった。それからというもの、帰国生というバックグラウンドを笠に着た嫌なやつ、という烙印を押されてしまい、しばらくはクラスにうまく馴染むことができなかった。未だに苦々しい思い出である。
以来、私は自分が帰国生であるとなるべく悟られないように生きてきた。日本語を必死に覚えるだけでなく、周りの子の会話を盗み聞き、当時流行っていた表現や言い回しの真似に努めた。塾の英語の授業で音読を命じられた時も、目立たないようにあえて日本語風の発音で英文を朗読した。当時の私にとって、帰国生であることはもはや恥ずべきことだった。
転機が訪れたのは高校受験の時だった。帰国生ばかりいる高校があるらしい。それも、自分とは比較にならないほど海外経験が長く、日本人離れした帰国生。そんな人たちが伸び伸びと過ごせる環境があるらしい。そう聞いた私は、これまでの自分の生き方を省みて、なんて窮屈だったのだろうと思った。そして自分ももう少し自分らしく、自由に生きてみたいと思い、ICU高校を志望した。そして一般入試、中でも苦手な数学のテストを乗り越え、なんとか入学に漕ぎ着けた。
ICU高校での3年間は、私の期待を遥かに越えるほどの自由に溢れたものだった。そしてその自由を私に与えてくれたのは、何よりも私の自由な級友たちだった。「自由な」とは、目立っているとか、派手であるとか、そう言ったことでは全くない(この点を勘違いするな、と当時の私にきつく言っておきたい)。私の友達は、帰国生にしろ一般生にしろ、皆自分を恥じることなく堂々と生きていた。そして学校にはいろいろな人がいるという事実を、そのまま尊重していた。そうした環境で過ごすことができたからこそ、私は今、自分が人とは違うこと、人とは違う経験をしてきたことを恥じずに生きることができているのだ。
自由に生きることは難しい。なぜなら、それには自由に生きたいという意志のみならず、自由が保障される環境が必要だからだ。ICU高校にはー少なくとも私に見えていた範囲ではーそれは確かにあった。しかしより広い社会に目を向けると、あまりにも困難な現実が待ち受けている。世の中には不正義や不公正が溢れ、全ての人が尊重される状況とはほど遠い。自分の在り方や意志を貫き通すよりも、大きな構造や慣習に追従してしまうほうがよっぽど簡単だ。
それでも私は、たとえそれが困難な場合であっても、自由に生きることは価値あることだと思うし、構造や慣習に抗ってでも自由に生きたい、そしてより多くの人が自由を享受できるようにしたい、と思う。なぜならば私はICU高校で一度自由を経験しているからである。そしてそれは何よりも楽しかったのだ。私にとってだけでなく、おそらくその場にいた全ての人たちにとって楽しかったのだ(と信じたい)。そう思わせてくれたICU高校での3年間、そして私に自由を与えてくれた全ての人に感謝しつつ、この世の中を少しでもより自由な空間にすべく、できる限りのことをしていこうと思う。