これまでの人生を振り返ると、私の人生に大きな影響を与えてくれた方が数人思い当る。

一人目は中学一年の担任の先生。ICU高校の説明会に参加して「他に受ける人いないから」と願書をくれたので、気楽に受験して補欠で合格。都立高校の入学手続きは済んでいたけど、両親も先生方も、もちろん私も「新設校で面白そうだからICUへ」とあっというまに方向転換。キリスト教概論の授業があったり、校内で英語が飛び交っていたり、カルチャーショックを受けつつも、クラブ活動や寮生活、文化祭、楽しい思い出が色々ある。二人目は高校三年の担任だった長谷川先生。進路三者面談で、医学部志望だった私に「東大受けてみないか」と。命を預かる仕事に精神的・肉体的に耐えられるか自信のなかった私は簡単に進路変更して、浪人して東大に入学した。

大学時代は大いに楽しみ、勉強しなかったのになぜか進学を目指し、ぎりぎりで合格して大学院へ。大学院二年目に「遺伝子工学の会社に入りたい」とつぶやいてみたけれど、担当教授は「早くいい男を見つけて結婚しろ」と、当時のライオン株式会社の研究所所長さんだったお友達に電話して「うちの学生を頼む」の一言で就職が決まってしまった。

ライオン入社後は習い事、合コン、海外旅行と楽しんだけど、日本の会社のカルチャーや満員電車が辛くなって医学翻訳の勉強を始めた。翻訳会社のトライアルに受かった時点で会社を辞め、しばらくのんびりするつもりが、失業保険が始まる前に、ものすごく安いレートで翻訳の仕事が入ってきた。英語力のない私が安いレートで仕事をしてもたいしたお金は稼げず、その時点でやっと「留学して英語を勉強しよう」と決心した。

通訳・翻訳を専門とする大学院を目指し、初めて受けたTOEFLが運良く(運悪く?)ギリギリの点数でなんとか合格し、英語のリスニングも会話もほとんどできないままアメリカへ渡ったのが34歳の時だった。「医学翻訳者になるために医学と英語の勉強をする」という目的で留学したのに、大学院では日本人の先生から日本人の同級生とともにビジネスや政治の翻訳や通訳の授業を受け、最初の学期で進路選択の失敗に気が付いた。2年目は医学と英語を勉強できる学校に転校しよう、と思っていた矢先、2年生を教えていた先生がアシスタント募集中、しかも私が理想とする翻訳をする方だったので、すぐに面接して雇ってもらい、翻訳の修業が始まった。その先生/ボスがH1Bビザをサポートしてくれ、渡米から2年足らずで正式に働けるようになった。ドットコムバブルの時代で、オンサイトで働いているときにIPOのお祝いに立ち会ったり、働きすぎで腱鞘炎になったりしてあっという間に2年がすぎたが、そんなに簡単に英語を習得できるはずはなく、「まだ帰れない」ということでグリーンカードの申請を始めることになった。

そこで、医学系の仕事を依頼してくれていた翻訳会社の社長さんにグリーンカード申請を条件に雇ってもらうことになった。素敵な社長のほか20人ほどの会社で楽しく過ごしたが、渡米からグリーンカード取得まで結局10年かかった。その後会社がアイルランドの翻訳会社に買収され、社名は変わったけれど、パンデミック前から完全リモートワーク、正社員で安定した収入を得ながらフリーランス翻訳者みたいな生活を満喫している。しかも買収によって、かねてから興味のあった臨床試験関連の仕事ができるようになり、「医者になりたい」というかつての夢にも少し近づけた、気がする。

通勤も人間関係の悩みもなく、エネルギーが余っているアフター5には社交ダンス、メキシコの民族舞踊や伝統音楽を習い、人前で踊ったり演奏したり、本番に強く、緊張感でクオリティが良くなるという新たな自分を発見した。メキシコ演奏旅行では女子刑務所やオペラハウスで演奏するという貴重な体験もさせてもらった。

語学が苦手で人見知り、外国にあこがれたこともない私が、半生近くをアメリカで過ごすことになったのは、自分らしくいられるこの国のカルチャーのおかげだと思う。仕事もやりやすく、プライベートと仕事のバランスを自分で選べるし、プライベートが充実していると褒められたりする。趣味を通して知り合ったメキシコ人からは、人生を楽しむことを教えてもらった。猫2匹と暮らすようになって、父に「俺が死んでも純子は泣かないだろう」とまで言われた自分が結構愛情深いことを発見して少しうれしかったりした。

想像もしなかったカラフルな人生を送ることになったのは、生まれも言葉も年齢も違う様々な人たちに出会い、流れに逆らわず柔軟に受け止め、次々に新しい自分を見出してきたおかげかと思う。今まで出会った人たちに感謝しながら、これからどんな人たちに出会い、どんな人生が待っているのか楽しみでもある。