早いもので、1978年4月にICU高校に入学してから、もう44年が経った。

が、高校に1期生として入学した当時のことは鮮明に覚えている。

第一志望の高校には行くことができず、しがない都立高校に入ると思っていたところICU高校から連絡があり、たまたま自分がとった電話で「ICU高校への補欠入学が可能になったから、入学する場合はいついつまでに連絡してほしい」というようなことを事務的に言われた。

「一般」枠の定員はたしか男子40名?ぐらいで、自分の補欠番号が17番だったから繰り上げ入学はまずないと思っていたが、当時はまだ海のものとも山のものともわからない新設校だったせいか、辞退者が多く出たと推察される。

(ちなみに、この補欠の番号は、後々男子一般生のほとんどが補欠入学であったことが判明してから、「おまえ何番?」「オレ◯番」といった感じでちょっとした序列?のネタになった)。

 

入学が決まって、学校に入学の書類?を取りに行くとともに制服の採寸のようなことが3月にあったのだが、まだ校舎が完成しておらず、高校から大学に向かう道の右側にプレハブのような簡易建物があったように記憶している。

(体育館や食堂、寮はまだ当然のようにありませんでした。プレハブ内にいた故山村玲子先生をはじめとする先生方が、大学生のように若かったのが印象的だった)。

 

当時は、いま以上に「先に生まれた方(要は先輩)がえらい」という時代錯誤のような考え方が主流で、通っていた公立中学校でもそのような考え方が根強かったため、「何もかもが新しい(設備ももちろんだが、校風などもまだない)」、「先輩も(最初の年は)後輩もいない」という真新しい環境にワクワクしていた。

 

クラブ活動も、生徒数が少ないため「かけ持ち」はざらで(のちに一つに絞るようになるが)、何もないところから始めるので自由過ぎる環境だった。

 

当時、運動部のユニフォームもまだない状態で、サッカー部が青を基調としたユニフォームを新調して部員のみんなが着ているのを見たバスケ部の仲間が、「なんでスクールカラーも決めないうちから勝手にユニフォームつくってんだよー」と文句を言っていて、「へー、海外の学校にはスクールカラーっていう概念があるのか。そういえばUCLA(←中学の頃、UCLAの文字の入ったものがやたら流行った)もカラーが青と黄色で統一されてたなー」などと妙に感心したのを覚えている。

 

何もかもが新しく、生徒も(今では海外の日本人学校といえば中国やアジアの生徒数が一番多いようだが)当時はNYやLAから来た人が多くて、廊下で英語のジョークが飛び交うような環境に「なんかすげー(外国みてー)」と思っていた。

 

自分は埼玉県から片道1時間半以上かけて通学していたので、寮が冬?(もう肌寒かったのを覚えている)に完成して移り住んだときは、24時間同世代の仲間と一緒にいれるので楽しくてしょうがなかった(リレーエッセイをまわしてきたのぶや(河村信也)とは寮で知り合った、というか同室だった)。

入学してからの1-2年間は、「ハイ」になったような心地よいトランス状態がずっと続いていたような気がする。

 

入学したばかりの頃(というか、たしか3年生の夏ぐらいまで)、ICUの大学には何人ぐらいが進めるのかとかが全くわからず、わかったとき(内申書で上から1割とかではなかったか?)は時すでに遅しでどこにも受からず予備校生活を経験したが、全く面白くない浪人生活と比べて楽しく充実した高校生活であった。

 

後に就職するとき、「国内よりも海外の売上比率が高い企業に入って、海外で仕事がしたい」と考えたのも、ICU高校に行った影響が大きいと思われる。

社会人になってから16年間を海外(4ヶ国)で過ごし、2018年までいたアルゼンチンではデフォルト(債務不履行。簡単に言うと、国自体が破産すること)も経験した。

おかげ?で大抵のことには驚かなくなりました

(リレーエッセイがまわってきたときは、少し驚きましたが)。

 

このエッセイがきたおかげで、入学当時のことをいろいろ思い出すことが出来た。

ちなみに、12年間海外に行きっぱなし(しかも8年間は地球の裏側)だった私ですが、有難いことに1期生との交流はまだまだ続いています。やっぱり、(特別な)「1期生」ということもあるのでしょう。

3年前から埼玉県の四輪販売会社の責任者をしていますが、もう1期生から3台ほど車を購入いただき、これもまた有難い限りです(・・値引きしたりして、あまり儲かってませんが(苦笑))。

 

来年の4月には、1期生の全員がもれなく還暦になっているはずで、感慨深いです。

 

我々の代の卒業アルバムのタイトルが”Genesis”でしたが、まさに創世期とでもいうべき1978年のことを思い出して投稿しました。