今年は、同級生の多くが還暦を迎えることになり、会社員は次のステージに進む歳でもありますね。私もその一人です。そんな区切りということで、私の仕事の最初の一歩を振り返ってみようかと…。

 高校時代は微塵も想像しなかった、映画業界で仕事をしています。大学で映画を専攻することになり(志していた訳ではなく、成り行きですが)、それまで年に数本しか映画を観ていなかったのが、専攻するからには…と映画館に通い始め、その面白さに嵌ってしまいました。映画会社の就職も考えましたが、コネのない四大卒女子には厳しい時代でした。卒業後は、学生時代のアルバイトの延長としてテレビ局で働き、そこでお世話になった方から「広告代理店の映像事業の部署で人を募集している。必ずしも映画ではないかもしれないけれど…」とお話をいただき、そこでの仕事が転機となりました。

 それは、アメリカの片田舎で開催されていたSundance Film Festivalを日本に招聘し、開催するというプロジェクトで、イベントに強い広告代理店とはいえ、映画ビジネスに明るい人はおらず、社外からSP会社、映画宣伝会社、宣材物や広告のデザイン会社、映画雑誌出版社、予告編製作会社などから招集されたメンバーで編成された事務局での仕事でした。
 専門分野はそれぞれあれど、映画祭事業なんてやったことのないメンバーの集まりです。何から手を付けるのか、どのように業務を分担し、会期終了までのスケジュールは?…など手探りで開催に向けてスタートを切りました。

 私の主な業務はプリント(上映する映画フィルム)を輸入・通関させ、字幕をつけ、映倫審査を通すこと。それ以外にそれぞれの専門分野に明るいスタッフと邦題決め、宣材物・広告の制作、チケットの販売頒布の管理、劇場予告編の制作、会場となる銀座エリア内の4カ所のホールでのプログラム編成(全作品を複数のホールで様々な時間帯で上映するよう組むため、プリント運搬の所要時間も考慮が必要でした。それは、1作品につき、プリントが1本ずつしかなかったからです。運搬途中で事故が起こったら…とリスキーな運用であることは承知していましたが、観てもらう機会を少しでも広げたい一心でした)。
また、来日デレゲーション(Sundance Institute関係者、監督、俳優など)の会期中の毎日のスケジュール管理、イベント(舞台挨拶、パーティやセレモニー)進行と台本作成…など思い出しながら書いていますが、その仕事量に今更ながら驚いています。会期が近づくと事務局近くのビジネスホテルにシャワーと寝るためだけに連泊し…とよく体力が持ったものです。
 経験の浅い私がそれだけのことをしなければならない程、人材が足りなかったのです。ただ、逆にそれが幸いし、あらゆる業務の一端を担わせてもらったことが、何事にも替え難い経験となったことは間違いありません。

 勿論、素人ならではの失敗もありました。プリント業務は、輸入・通関するための書類作成から入ります。手順がわからず、電話で映像素材専門の通関業者に手続きを聞き、「指定の用紙に送付元、作品名、監督名、製作年、尺(上映時間)やコウガイを記入してください」と言われたものの「コウガイって何?」となり、事務局の誰もわからず、その後、作品概要を意味する「梗概」と知りました。また、字幕翻訳家の連絡先すら知らず、どの方が適任なのかわからず、ある方から段取りを教えていただいたのですが、私の理解が不充分で、翻訳に必要な素材が揃っていないのに発注しようとして、ある翻訳家からは「これでは期日に間に合いませんし、そもそもお受けでき兼ねます!」と言われ…。そして、それら失敗の中でも一番青くなったのは映倫審査のアクシデントでした。

 映倫審査は、作品を審査員に観ていただき、レイティング(審査基準)が決まり、発行された映倫番号をプリントに焼き付けて、完了です。プリント到着は遅れ気味でしたが、通関業者や翻訳家の方々のご協力で、次々と審査も通していました。しかし、1本だけ大幅に到着が遅延した作品の審査時間が取れないことに。審査団体に相談したところ「本来は審査を以てですが、内容的に問題なければ、会場に審査員を派遣して、念のため確認する体で映倫番号の発行を事前にすることは可能」との返答。上映に間に合わせるにはその方法しかありませんでした。

しかし、団体と審査員間の連絡に不備があり、こともあろうに審査員が上映ホールに「審査のために「〇〇〇〇」という作品を当日観に行くが、上映は何時から?」と問合せしてしまったのです!ホールの支配人から「映倫審査を当日やると聞いたが、どういうことか?」と電話が。映画館の上映では映倫審査は必須で、貸ホールはそれに準ずるとなっていましたが、そのホールでは過去に映倫絡みの事件があり、他のホールならば、問題なかったのですが運悪くそのホールではそうではなかったのです。審査基準に問題ない作品であることは説明しましたが、「そのような作品の上映は許可できない!」と凄い剣幕で電話は切られました。ポスターや広告が間に合わなくても、舞台挨拶が中止になっても、映画祭は開催できます。しかし、映画の上映なしでは成り立ちません。しかも、チケットは販売済み。上司が事情説明にホールに赴いてくださったおかげで、当日に審査する承諾を得て、安堵したことを冷や汗モノだったと記憶しています。

 会期中にも数々のハプニングはあったものの映画祭は無事閉幕し、プロジェクトは一旦解散。その後、2回の開催にも携わることになりました。

 この映画祭のおかげで、その後いくつかの仕事を経て(ICUHS校歌の作詞をされた奈良橋陽子さんのアシスタントもしました)、卒業時には叶わなかった映画業界で働くことになりました。少し遠回りしたものの、映画祭運営の経験が却ってその後の宣伝業務にも役立ったことを実感する場面がいくつもありました。ひとつの仕事が終わると、その関係者から「次はウチで仕事しない?」とお誘いをいただき、有難いことに仕事に途切れたことはありません。こうやって仕事を続けてこられたのも、一重にその時々で出会った方々のおかげです。その方々の顔を思い浮かべながら、これを書いています。そして、これからも新たな出会いがあることを楽しみにしています。