『あの時、何をしていましたか?』

櫻山崇(14期)

2011年3月11日午後2時46分。大震災が東日本を襲った瞬間は、共同通信社仙台支社のトイレの便座に腰掛けていた。「いつまで続くのか」。ズボンを下ろした情けない格好のまま両足でふんばり、しばらく激しい揺れに耐えた。何とかズボンを引き上げ、急いで廊下へ。壁に亀裂が走り、ミシミシと天井に向かって広がるのを見た時には建物の崩壊も覚悟した。

ファイルに埋もれた固定電話を取り出し、警察署や海上保安署への被害状況の取材を開始。「こちらは完全に機能停止です…」。受話器の向こうの上ずった声を聞きながら振り返ると、黒い津波が家々をのみ込む様子がテレビ画面に映し出されていた。

ふと数日前の記憶が蘇った。ランチを楽しんだ仙台のサンモール一番町商店街のアーケード。雑居ビル5階の喫茶店では「つみきのいえ」という短編映画が上映されていた。水に沈みゆく街で、積木を積み上げるように家の増築を繰り返す独居老人の物語。ずっと気になっていた作品だが、見たのはこの時が初めて。最後までじっくり鑑賞してから席を立った。今では、これが津波の予兆だったと思うことにしている。

あれからもうすぐ1年が過ぎようとしているが、初めて行った宮城県南三陸町の被災現場は今も忘れられない。木造家屋は基礎部分を残して姿を消し、むき出しの鉄骨には養殖ロープごと巻き付いた無数の牡蠣やワカメ。気仙沼市では墓石が流失し、住民が先祖の墓を探してさまよっていた。夏には倉庫から流された大量の魚が腐り、なんとも言えない異臭が被災地を包んだ。ハエが大量発生し、粉塵が舞う。夏の衛生状態は最悪を極めた。

被災地で見る光景は、今もあまり変わっていない。がれきは片付き、仮設住宅や仮設店舗が完成したが、かつての住宅地が遺跡のように風雪にさらされている。多くの人は失業し、将来展望も失ったままだ。特例で延長されている失業手当の期限切れも迫り、福島第1原発事故は終息の見通しすら立たない。あまりにも甚大な被害への対応に追われ、その場しのぎの政策を繰り出すしかない政府や行政。その姿は、水位が上がるたびに、屋上に新しい階を建て増す映画の主人公と重なる。

震災で岐路に立たされた日本の将来を占う上で、個人的に注目しているのが、大航海時代にスペインと並ぶ強国だったポルトガルだ。1755年のリスボン地震と大津波を機に国力が衰退し、今も当時の輝きを取り戻すことはできていない。日本と同様に面積が狭く、加工貿易国だったことを考えると他人事ではない。

新興国の英国に追い上げられていたポルトガルと、国際的地位が下降する日本の状況は似ているかも知れない。子ども時代を過ごした1980年代の欧州で見かけた街の看板は「TOYOTA」や「SONY」。しかし、最近は韓国企業の広告が目立ち、使用しているテレビや携帯電話も韓国製。前任地のイランでも、中国、韓国勢に対し日本の存在感は希薄だった。当時のポルトガルと今の日本を比較する取材ができればと思っている。

年末。再びアーケードの喫茶店を訪れると、相変わらず「つみきのいえ」が上映されていた。