視野を広げてくれたICU高校

 「自転車で15分の県立高校に行けるのに、どうして電車で1時間半の新設高校に行くの?」と言われながらも選んだICU高校。どうしてICU高校にしたのか?答えは英語ができるようになって海外に留学したかったからだ。小中学校は地元公立校。70年代の公立校にはネイティブのティーチングアシスタントなんていない。ジャパニーズイングリッシュばりばりの英語教師ばかりだった。輸入物のテレビドラマも日本語吹き替え放送。英語を勉強しようと思ったら、学校の授業、NHKラジオの英会話、映画館で見る映画くらいしかなかった時代だ。それでも中学では英語部に所属して、ジョン・デンバーとかカーペンターズの歌や、学校祭の英語劇の企画などで英語を勉強していた。だから、「帰国子女がマジョリティー」のICU高校は、英語教育は充実しているだろうし、なにしろ同級生が英語ペラペラだろうから、埼玉から1時間半かけても行きたかったのだ。
 そして始まった高校生活。ネイティブ張りの英語を話す同級生にはどうがんばっても追いつけなかったけど(当然だ、彼らは、現地校に放り込まれたときに相当苦労しているのだから。そんなことも知らない私は、私立高校の学費を出してくれていた父に、なんで海外駐在に行かないの、と文句ばかり言っていた)、それなりに英語は上達したと思う。ただ、学んだのは英語だけではなかった。当然のことだけど、英語圏ではない国から帰国した大勢の同級生が在学していた。今に比べると欧米帰りが多かったけど、エッセイリレーに登場した水谷さんはエチオピア。それに欧州各地、ギリシャ、南米、香港、台湾、そして私が今住んでいるシンガポールやその周りの国々。当時、東南アジアのことは中学の地理で学んだくらいで、赤道直下の熱帯、ラフレシアという世界最大の花があることくらいしか知らなかった。もちろん、その赤道直下に人生の半分以上を過ごすことになるとは夢にも思っていなかった。そう考えると、外国=欧米だった視野を、一気に開いてくれたのが、ICU高校だったと思う。
 視野が広がったと言えば、時事問題に関心を持つようになったのも高校時代だった。3年生のとき、W先生の政治経済の授業で、時事問題を調べて発表する機会があった。ちょうどその頃イラン革命が勃発。アメリカ大使館占拠事件が継続中だった頃だ。イスラム教のことは何も知らなかったけど、無謀にもイラン革命をテーマに選んだ。GOOGLE 先生なんかいないから、新聞を追いかけるのと、図書館で文献を探すしかできない。それでも調べるのは楽しかった。就職した後、色々試したけど、結局今も調査が好きで、市場調査とか業界調査の仕事を続けているのはこの3年生の授業に原点があるのかもしれない。この授業では、同級生たちの発表も面白かった。ベトナム戦争のこと、日系移民のこと等、現地にいたからこそ(あ、ベトナム帰国子女はいなかったけど、ベトナムと戦争していた米国、との意味で)の視点が聞けた。
 話は逸れるが、この授業を担当していたW先生には、海外研修や留学専門の旅行会社に勤務していたときに、お世話になった。その会社がつくった日本国際交流振興会が、日本国際教育学会にお世話になっていて、当時某大学の教授だったW先生は学会の理事をなさっていたのだ。シンガポールに移住してから一度大学に遊びに行って、先生の時事問題授業が私の今の仕事の原点にあると思います、とお話ししたらとても喜んでくださった。また遊びにおいで、と言われていたのに、その後お会いすることのないまま、2010年他界されてしまった。もっとお話を聞きにいけばよかったと今でも悔やまれる。
 大学に入り、憧れの海外留学を経験し、外国に行けそうな組織に就職し(均等法前だから女性の海外駐在はもちろん、出張も稀だった)、希望の駐在先は東南アジア、と迷わずに書いた。本当は国土がもっと大きいマレーシアに行きたかったけど、当時、女性が赴任できるのは東南アジアではシンガポールしかなかった。3年の駐在で終わるはずが、縁あってここに永住することになり、今年で通算28年目になる。今はコロナで開催できなくなったけど、仕事の他にアジア各国の子供たちを集めた教育イベントに関わったりと、忙しくあっという間の28年だった。このダイナミックな都市国家が成長していく様をこの目で見れてきたことはとても幸運だと思う。シンガポールで、そしてコロナ禍前は出張先の近隣諸国の都市で、高校の同級生の〇〇さんが住んでいた頃のここはどんなだったのかな、と思いを馳せたりしていた。そう思うと、今、私がここにいる原点になったのはICU高校時代だと思う。視野を広げてくれた先生、学友たちに、そして私立高校、大学と海外留学の学費を出してくれた親に、改めて感謝したい。