■□はじめに■□
おひさしぶりのみなさんも、はじめましてのみなさんも、こんにちは。22期の吉竹美緒です。
初めて訪れたときに「東北の真珠」という言葉が思い浮かんだ、岩手・西和賀に暮らす渡辺瑛子さんからバトンをもらいました。卒業から20数年が経っても、物理的に離れていても、当時と変わらない温かなつながりが続いていて嬉しい間柄です。
昨年は、瑛子に「わたしたちが見つけた地域の可能性~アフリカと岩手の現場から~」というイベントでご一緒いただきました。
いま、私はイベントの主催団体でもあった「エイズ孤児支援NGO・PLAS」というNGOで働いています。
「アフリカで取り残された子どもたちが前向きに生きられる社会をめざす」というビジョンのもとに集まった仲間や支援者のみなさんと一緒に、ウガンダとケニアと日本で活動する日々です。
■□アフリカに飛び込んだきっかけと、葛藤■□
誰かを巻き込んでリーダーシップを取るのが苦手だった高校時代。
けれども、大学時代にたまたま観たドキュメンタリーがきっかけで、卒業後にアフリカのウガンダに行き、エイズで親を失った子どもたちの学校運営ボランティアとして過ごすことになりました。
そこで出会ったエイズ孤児たちとの出会いが人生を変えました。
エイズで親を失った悲しみだけでなく、周囲からの差別に苦しみ、学校に通うことさえ許されない子どもたち。
そんな子どもたちが教育を受けられるようにと、ウガンダで小学校の運営からスタートしました。
学校に通えるようになった子どもたちのひとりに、デリックくんという男の子がいました。13歳で、小さな子どもたちに混ざって小学2年生のクラスで学んでいました。
両親をエイズで亡くし、それでも「学校に通えて嬉しい。たくさん勉強して、いつかパイロットになるんだ」と夢を語ってくれました。
子どもたちとの出会いをきっかけに、高校生の頃から漠然と抱いていた国際協力の道を志すことに。
日本に帰国後は、内定が決まっていた外資系の証券会社に就職。優秀な同期や先輩方に囲まれながら、充実した3年間が過ぎていきました。
けれども、丸の内にそびえる30階のオフィスビルから沈む夕陽を眺めながら思い浮かぶのは、ウガンダで出会ったエイズ孤児たちやHIVと共に生きる人たちでした。
日々の業務で決済する1日数百億円の日本国債の取引先は、欧米の中央銀行やヘッジファンド。
たった数千円の学費を親が出せずに、学校に通えなかった子どもたちの姿が脳裏に浮かび、この世界の不均衡に自分なりに向き合いたいと思っていました。
■□人生を変えた1本の電話■□
「自分に嘘をつかず、後悔しない生き方をしたい」と考えていた時に、学生時代から一緒に活動してきたPLASの代表から1本の電話をもらいました。
「ケニアで事業を展開するために、日本から支えてくれる人が必要なんだけど、スタッフとして働かない?」という、私の人生を大きく変えた、きっと最初で最後の最高のスカウトでした。
当時のPLASは、ようやくお給料を出せるスタッフが2人になった時期。
恵まれた待遇や成熟した企業で働きつづけることを振り切って、設立間もないNGOに飛び込んでいく不安はなく、「自分が納得できる仕事ができる」とワクワクしていました。
それから13年、学生7名で立ち上げたボランティア団体だったPLASは、ウガンダとケニアで活動をつづけ、現地のNGOとともに685家庭、3,000名以上の子どもたちに支援を届けてきました。
現在は職員6名・インターン生10数名・役員8名で運営するNPO法人です。
■□ICU高校の経験がいまにつながる■□
現在の仕事の素地をつくってくれた人生の1ページが、ICU高校でした。
一般生として英語が満足に話せずに入学した私は、英語やドイツ語、中国語、イタリア語・・・さまざまな言語が同級生のあいだで飛び交う入学式の日、「大変なところに来てしまった」と怖気づきました。
英語を母語として操る帰国生の同級生たちが別世界の人たちに思え、縮こまっていた日々を変えてくれたのも、やはり帰国生の同級生でした。
「日本語が難しくて世界史の授業が分からないんだけど、教えてくれない?」と声をかけてくれたEさん。
生まれてからずっとアメリカ育ちで、周りとは英語で話して、難しそうな洋書を読んでいる彼女には、分からないことなんてないのだろうなと思っていました。
でも、そんなEさんにも、苦手なことがあって意外でした。
一緒に「勉強会」をはじめるうちに、一人また一人と帰国生の同級生たちが仲間入りして、いつしか日本語で世界史や地理を勉強する小さなコミュニティができていました。
私が日本語で解説することもあれば、帰国生のみんなが英語エッセイの添削してくれたりと、互いに教え合う場は放課後のささやかな楽しみに。
時間が経つなかで、アイデンティティで揺れる気持ちを話してくれたり、私も悩み相談をしていくうちに、最初の頃に抱いていた「帰国生/一般生」という枠は消えていき、生まれ育った環境や言語の違いを越えて、唯一無二の大切な友人たちになりました。
いま、アフリカで生まれ育った人たちとともに活動するなかで、考え方や習慣の違いにぶつかりながらも、あくまで目の前にいる「〇〇さん」という人をそのまま受け入れ尊重し、彼女/彼らから多くを学ばせていただいているのも、ICU高校で50ヵ国以上の文化的背景を持つ友人たちと過ごせた経験があったからこそです。
社会の理不尽さから目をそらさない
もう1つ、私の原動力となっているのが「社会の理不尽さから目をそらさない」というスタンス。これもICU高校で学びました。
今は校長先生となられた中嶌先生の倫理の授業では、それぞれのグループで関心のある社会テーマを選び、数か月かけてリサーチをして、最後にその考察を自由な方法(寸劇で表現する、新聞を発行するとか)で発表するユニークな授業でした。
私たちのグループは、「沖縄の米軍基地」をテーマに、街頭インタビューをしたり、沖縄タイムスの支社を訪ねたり、沖縄で米軍を抱える自治体に手紙を書いて電話でお話したり、自衛隊の方にお話を伺ったりと、あらゆる手段でリサーチをしました。
そのプロセスで、声にならない声が世の中にあること、目を向けなければその問題は「なかったこと」になってしまうと気づいたのです。
アフリカのウガンダとケニアの現場は、日本から飛行機を乗り継いで30時間以上かかるラストワンマイルですが、そこで起きていることを「なかったこと」にしたくない。
アフリカの人たちに学びながら、一緒により良い社会をつくっていくことを目指して18年活動を続けてこれたのも、ICU高校で学んだ素地があったからかもしれません。
さて、次のバトンは、ICU高校で1年生のときに隣の席で、卒業してからも大切な友人であり続けてくれているYさんに渡そうと思います。高校時代には想像していなかったような荒波や壁にぶつかるたびに、歩む道を照らしてくれて、ありがとう。