ICUHSバトンリレー
2期生の有名人、加山至くんからバトンを引き継ぎました新川真美(旧姓桑原)です。当時は名字の「桑」から「かいこ」と呼ばれておりました。ICUHSにはアメリカからの帰国生として入学致しました。
住んでいたのはアメリカ、ワシントンD.C.近郊のメリーランド州ベセスダ。小学校5年生から中学2年生まで3年間です。ICUHSの皆さんにとっては「たった3年」かも知れませんが、私にとってこの3年は人生を変えた「大きな3年」でした。
それまでの私は「内気」。人に話しかけるなんて出来ずにひたすら話しかけてもらうのを待っているような子でした。
そんな子がアメリカで通用するはずはありません。最初の1年は英語の出来ない日本人として優しくしてもらっていましたが、2年目ともなると違います。英語を聞き取れても上手く喋ることが出来ないまま、いつしかついたあだ名が「shy Mami 」。いじめられはしませんでしたが、なかなか溶け込む事が出来ません。学校から帰っては母に泣きつく毎日。それでも不思議と学校を休む事はありませんでした。
夏休みを経て7年生。中学入学を機に突然「変わろう」と思い立ち、それまでの小学校の友だちとは交流せずに「shy Mami」を知らない新しい友だちを作りました。
それからの私は人と交流するのが楽しくて人との出会いを楽しむようになりました。帰国して1年半後に入学したICUHSでもそうです。お陰様で今でも続く沢山の友だちが出来ました。
その後の大学4年生の夏にたまたま先生から身長もあるし英語も出来るからCA(当時はSW)を受けてみないか、と勧められました。漠然とした憧れはありましたが難関と聞いていたので無理と思いつつ受ける事にしました。
その夏、JALの御巣鷹山の大事故が起きました。
第一志望は翌年に国際線進出を予定していたANAです。国際線の就航先に以前住んでいたワシントンD.C.が入ってからです。JALの事故を受けてANAにCA志望者が増えた年でした。様々な試験をなんとかクリアし、内定を頂くことが出来ました。
1986年、179期として入社。既に会社は国際線に進出していましたが、当時のANAでは先ずは国内線を経験する事となっていましたので羽田空港支店に所属。翌1987年5月に成田空港支店へ移動となりました。
初の国際線フライトは偶然にもワシントンD.C.。長いフライトタイムでビジネスクラスを担当し大変緊張していたのを覚えています。当時のANAはグアム、LA、ワシントンD.C.の3地点しか飛んでいませんでしたが、その後北京、大連、香港、シドニー、ソウル、などと路線が増えて行きました。路線が増えると同時に乗務する機種が増えて行き、その都度の訓練も続くけれど様々な国が見られて充実した日々でした。また自分自身もフライトの中で新人を指導したり、組織の中で責任のある地位に就いたり、と経験を積みました。
時代的には北京の天安門事件、ソ連8月クーデター、そして昭和の終わりなどを見てきました。そうそう、桑ヶ谷先生が偶然ご搭乗なさっていてお声を掛けて頂いた事もありました。
結婚を機に96年に退職しました。ラストフライトは自身の希望でやはりワシントンD.C.。チーフパーサー(客室の責任者)として乗務して10年に渡る空の仕事に別れを告げました。
結婚したのは当時レストランで働き、今はRigolettoなどのレストランを経営する男性。社員をはじめ沢山の方々に出会っています。
shy Mamiはもういません