2021年、今年の夏はオリンピック・パラリンピックのボランティアとしてのべ21日ほどオリンピックスタジアムに赴き、暑くて熱い日々を過ごしました。そこでボランティアの休憩所として使われていたのがプレハブの建物で、それを見た瞬間、私は一気に「あの日」にワープした気がしたのでした。「あの日」とは、ICU高校に受験のための願書を出しに行った時のことです。完成間近の校舎にはまだ入ることができず、プレハブの事務部屋の扉をドキドキしながら開けたその時、今は亡き山村玲子先生が迎えてくれました。そして、刺激的な新しいことが始まる予感を感じ、「この学校に入りたい」と強く思ったのです。受験当日のテストの内容も当時としては風変わりなもので、一般生として受験勉強に励んでいた私は、特に数学のテストを見た瞬間、「これだっ」と叫びたい衝動にかられました。今まで何度かその時と同じような、雷に打たれたような衝撃と、その後に訪れる震えるようなワクワクする瞬間を経験しましたが、その時が人生において初めての「これだっ」でした。期待した高校生活が全部が全部楽しかったわけではありません。得意だったはずの英語にコンプレックスを抱いたり、自己主張する友人の中で、悶々とした日々を送ったこともあります。でも人生の通過点の中で、大切なことを掴んだ3年間でありました。それは自分の道は自分で選ぶ、という自覚です。高校時代が私自身の人生の始まり、と今ははっきりと言えます。

 その後大学を卒業し、実家の宝石販売を手伝ったり、自宅でパン教室を主宰したりしました。結婚して娘が生まれたことは、大きな転機となりました。何かを選択する際に、「娘」という存在が大きな原動力となったのです。例えば、40歳を過ぎて運動不足解消のためにジョギングを始めました。そのうち走る距離や時間が増えていきました。ある時マラソンの大会に出てみようと思ったのは、娘に苦しそうな顔でがんばる親の姿を見せ、応援してもらいたかったからです。親は子どもになるべくつらい姿は見せないものです。でもはたしてそれは正解なのだろうか。大人だってつらいこともある。でもがんばっている。それを見せれば、何かを感じ取ってくれるに違いない、と思ったのです。親のエゴだったかもしれませんが、娘はその後もピクニック気分でいろいろな大会についてきては、一生懸命応援してくれました。また、娘が中学3年生の受験の夏には、一方的に勉強しなさいと言うのではなく、自分も何か資格のために一緒に勉強しようと思い立ちました。そこで選んだのが小学校教員資格認定試験でした。受かれば、教育実習なしで小学校教員2種の免許が取得できる試験です。右も左もわからない中、過去問題を頼りに50歳で挑戦したその試験では2次で落ちてしまい、達成感を求めて、改めて大学の通信教育で1年半かけて資格を取得することとなりました。めでたく小学校教員免許を手にしたその時、52歳になっていました。人には頑張ったね、大変だったでしょ、と言われますが、正直一言「楽しかった」のです。それは、はてなだらけのなかで続けた子育てに、こういう意味があったのか、あの時のあの行動はあれでよかったんだな、困ったときにはもっとこういう機関を利用すればよかったのか、と教科書を通してすべて答え合わせをしていくことができたからです。実は本当に小学校の先生になるとは思わずに資格を取りましたが、ご縁があり、講師を経て産休代替で担任をさせていただくようになりました。人を育てるというのは、大変ですがやりがいのある仕事です。今、私の周りで学習支援などのサポーターをしてくださっている方々には、自分の経験を話して、1歩前に踏み出し資格を取得するように勧めています。

 さて、これから。

来年には60歳、でもまだまだ人生は続くので、ちょっと変わってる、をほめことばと受け止めて、オリジナルな道を歩んでいきたいと思います。これってほんとICU高校卒業生らしいですよね?!    1期生 藤田(依田)敦子