先日、海外で活躍している同期が帰国するというので、久しぶりに渋谷へ出かけた。3年2組のメンバーを中心に、“乱暴者に見えるけど心優しい”シンちゃんが中心となって、みんなを集めてくれた。 その席で、数学の女王だったカヨさんに「同窓会のエッセイリレーが5期の番になって、最初の書き手を今日決めないといけない。どう?」と声をかけられた。つい引き受けてしまった。

俺は航空工学の世界で技術レポートばかり書いてきたので、情緒ある文章を書くのは苦手だ。何を書こうかなと考えながら、数年前に栃木県中小企業診断士協会の会報に寄稿した文章を読み返したら、売れない芸人が気負って書いたネタのようで、変な汗がでた。テーマを探す。やってきたこと、趣味、どれもピンとこない。高校時代の仲間はみんな個性的で才能豊かで、勝てる気がしない。 悩んだ末、気負っても仕方ないと悟り、結局どうでもいい思い出話を書くことにした。「そうだったね」と一部の人に思ってもらえれば、うん、それで十分だ。

入学したての頃、俺は4組だった。Bセットだ。AセットとBセットの間にはホールがあり、教室棟から本館へ続く渡り廊下が通っていた。この構造が地理的な分断となり、俺たちにとってAセットは“向こう側の世界”だった。 ウィラード、カーツ、エイブと呼び合う連中が、黒いヘビメタTシャツを着て肩で風を切って歩いているのが見えた。恐ろしい世界だった。地理的分断のおかげで、向こう側に行かなくて済むことに感謝していた。 そんな“向こう側”に、シンちゃんがいた。

キリスト教の博愛精神を掲げる学校のはずなのに、当時の運動会ではなぜか防衛大学校名物の「棒倒し」が行われていた。棒の周りに団子状に集まって守る守備側と、突進して団子をかき分け棒を倒す攻撃側が1チームで対戦する。早く相手側の棒を倒した方が勝ち。 当然、荒くれ者たちが攻撃側になる。シンちゃんがいる1組の対戦。合図とともに猛然と突進したシンちゃんが、敵陣の守備にエルボードロップ。やられると本当に痛いやつだ。勝敗はどうでもいい。その瞬間が、今も目に焼き付いている。 次の春、Aセット最恐の男と同じ組になると聞いて、ナイーブだった俺は不安な春休みを過ごした。でも、それは杞憂だった。迎えた新学期、一生の友が一人増えた。 ほかにも、学校では、エキスパンダー男、トールなど、たくさんの財産を得た。トヨキに至っては、会社まで一緒になった。

今では寮の運営も変わってしまったらしい。その背景には5期から10期の寮生たちあたりがあまりに自由に振る舞って寮監の先生をはじめとした先生方々の手を焼かせたことがあるらしい・・と聞いたことがある。4期も相当にむちゃくちゃだったけれど人のことはいえない。俺たちが第2男子寮に入ったとき寮に住み込みの寮監は、陸軍士官学校出身という噂のあるアメリカ人の先生だった。月一回の大掃除の時は白い手袋をはめた先生が各部屋に点検に来る。窓の桟をすっとなでて埃がつくとやり直しって具合の軍隊式。後に経験した自衛隊研修で知った厳格な軍隊的規律などとまでは言われたことはなかったけれど、埃の一件だけでも俺たちの反体制魂に火がついて度々強く反発した覚えがある。

期末試験期間にワールドカップスペイン大会の「セビージャの夜」と呼ばれるドイツ-フランス戦をみんなで観戦していた第2男子寮生は燃え上がりみんなで目の前のグランドに飛び出し勉強そっちのけで必死にボールを追っかけた。夕食の時間、なぜか第2男子寮生だけ泥だらけだったので、ほかの寮のメンバーから奇異な目で見られたと思う。俺たちはそのときにすごくすっきりした気分だった。

夜になると窓を開けて星空に向かい思いをぶつける。寮監の先生からしたらたまらない。幸い、掃討作戦は実施されなかった。今、「先生、寮監をやっていただけませんか」といわれたら俺は絶対に断る。宇宙で2番目に絶対だ。若者を自由にさせたいが、あまり自由にされると疲れる。

幼く危うい僕らに対して、先生方はいつも生徒の将来を最優先に考えて対応してくれた。今ならよくわかる。 その結果、俺を含めた心当たりのある者は、まっすぐに人生を歩み、社会に大きく貢献できたと思う。本当に感謝している。本当の「自由」の楽しみ方を学んだと思う。

中高と同窓だった親友が亡くなった秋、久しぶりに高校を訪ねた。新小からの道は風景が変わっていて、裏門にたどり着けず、時の流れに西野門まで歩かされてしまった。 オグロやタクたちとR&Bバンドを結成した図書室も新しくなっていたし、同じつんつんヘアのKさんにケーゴと間違えてスライディングキックをかましてしまった体育館も、別のものになっていた。 でも、同じ感触の空気が、そこには流れていた。そんな気がした。