15期のエッセーリレー、高校3年間、サッカーという名の青春を共にした仲間の松平(美濃部)香奈からバトンを受け取った、加藤(野田)晴子です。
私も香奈とは別の形で、教員としてICU高校へ戻り、二度目のICUHS生活を経験することができたことに感謝している。
13年余りの北米生活を経てICU高校へ入学した、当時は超が付くほど日本語ができない、日本のことを知らない帰国子女だった。少しずつ日本語にも日本文化にも慣れていくにつれて、徐々に日本人としての自覚も芽生えていった。
社会人になってしばらくすると、日本語で小説や新聞が読めるようになり、初対面の人には帰国子女の正体がバレなくなり、日本のお笑いさえわかるようになった。それでも、同年代のみんなが知っている「子供の頃に流行った懐かしいあれこれ」の話題には乗れず、自分の考え方がアメリカでの教育に影響されているものだと実感することも多く、はみ出し者という気持ちを抱き続けていた。
中でも、私には絶対に手に入らない日本語が三つあった。それらさえあれば、私はもっと日本人だと胸を張って言えるはずだ、と思ったことさえあった。
それは、「田舎」「幼馴染」そして「地元」。そんなこと?と思われそうだけど、どれも私には手が届かないものばかり。
「田舎」というのは、日本にいて帰る場所で、ホッと一息できるところ。両親とも東京出身ということもあったが、日本でほとんど長期休みを過ごしたことがなかったことも大きかった。東京に住みはじめてからは、毎年決まって帰る場所がある友人たちがうらやましかった。
30代になって、たまたま結婚した夫が愛知県のいわゆる田舎出身で、ついに私にも「田舎」ができた。田舎に憧れを抱いていた私は、映画で見た田んぼの間を自転車で駆け抜けるシーンをいつかやってみたいとずーっと思っていた。結婚後まもなく、ついにその時が訪れた!しかし夢と現実のギャップは大きく、いざやってみると大量の虫に刺されまくり、1週間以上かゆみだけが残った。二度とやらないと誓った。
そんな苦い思い出もあるけれど、いつの間にか毎年夏休みと年末年始に家族で帰省することが習慣になり、夫と家族に感謝の気持ちと小さな幸せを感じている。
息子が生まれ、2年半の短い海外生活を経て幼稚園の途中から東京生活が始まった。それからはや5年。現在小学校3年生の息子には、幼稚園からすでに6年連続同じクラスという幼馴染の女の子がいる。年少の演劇本番の最中に押し合いの喧嘩をしたことなど、今ではその子の母親と懐かしい笑い話もできる。息子を介して私も「幼馴染」を何となく感じることができた気になっている。
そして同じ街で5年も子育てをしていると、近所で息子の友達やママ友などとばったり会うことが日常となった。高校時代、片道1時間半以上かけてICUへ通学していたので、近所に知り合いは1人もいなかった。その後も街中で独り暮らしをしていると近所付き合いもほとんどなかったので、約束もせずに家のすぐ前で友達に会う喜びを日本で初めて知った。いつの間にかここが私の「地元」になっていたのだ。
私も一応、三つを手に入れることができたかも、と何となく満足していたところ、先日卒業30周年の同窓会を高校の学食で開催させていただいた。高校時代の仲間達と同じ場所に集まり、改めて気付いた。
ICU高校は私にとっての「田舎」であって、出会った頃幼くはなかったけれど、日本で初めてできた友達は、今では30年来の私の「幼馴染」なのだ。
これで50歳目前、ようやく私も真の日本人になれたのだと誇りをもって言いたい。
次は、私にとって日本人のお手本とも言える、一般生でありながら広い視野を持っていて高校時代にイタリア留学をしていた並木(渡辺)有希にバトンを託します。
