小中9年間で4か国7都市9校を浮遊したpre-SNS世代のキコクの常として幼馴染みなどなく、両親以外に高校入学前の自分を知る人も居ない独りっ子にとっては、中3までの経験や記憶は限りなく幻想になりつつある。そういう意味で、高校は自分の原点かも知れない。
アメリカで9月から行く地元の高校も決まっていて、カリキュラムを見ながら「運転免許の授業がある!」などとワクワクし始めていた矢先に急遽帰国し、ワケもわからず都内の公立中学の3年の2学期に編入した15の夏。(免許を取れなかったことだけが残念…)
当時、受験準備もしていない無計画な帰国子女が受けられる高校は皆無に近く、中学の担任に「どうせICU高校に行くんでしょ」と言われて呑気に「ふーんそうなのか」と思っている間にそうなった。この高校が「帰国子女という新たな社会問題の救済のために出来た」と知ったのはそれからウン十年経ったころだったが、なるほど自分は“救済”されたんだったかと合点がいった。
漠然と大学も隣に行くもんなんだろうとだけ思い、他大の可能性など微塵も考えないまま呑気に(地味な)高校時代を過ごした。そのくせ推薦を取れる成績ではないらしいことに気づいたのは遅かったが、英語の授業で勧められるがままに早くからSAT/TOEFLを受けていたことに救われた。
SAT枠で入ったお蔭で同期の知り合いがほとんど出来なかったのは誤算だったが、あまり就職活動に熱くない(ように見える)校風のお蔭で、これまた呑気に(地味な)大学時代を過ごした。
ロクな就活もしないまま、英語を使うらしいというだけで受けたテレビ局のちょっと専門的な職に就いた。“会社説明会”は説明を聞くだけだと思って行ったのに採用されるのだから有り難いものだ。
24時間営業の報道フロアは泊まり勤務アリ年末年始ナシの慌ただしいところだったが、学生時代の延長線のように和気藹々としていた。人生ほぼ3年おきに国や街や環境が変わっていたのが、初めての無期限ロングランで、あれよと言う間に10年が過ぎた。
転職するつもりで辞めたのに、なりゆきでイギリスに大学院留学し、翻訳の修士を取った。
帰国後、なりゆきで外務省の外郭団体で国際交流の仕事に就き、世界中から教員を招いて日本を知ってもらう視察ツアーなんかを組んだりした。
この辺りで、流石になりゆきだらけの無軌道な経歴に引け目を感じ始めていた。
しかし、国際交流の仕事が3年満期を迎えるころ、古巣のテレビ局から少しずつ翻訳などの仕事を頂くようになった。そのうち、テレビ局が集まる国際会合などの事務局を手伝うようになった。そうこうするうちに、即位の礼や広島サミットのメディアセンター本部で海外メディアの窓口を担ったりするようになった。
翻訳の修士が役立っているかは微妙だが、古巣で身につけた、一般の翻訳者にはちょっと手強い専門知識と、報道のハシクレでも染みついたファクトチェックの執念深さと、現場の事情を知る者だからこそ許される四角四面じゃない意訳が重宝がられた。現場の事情を知るからこそ徹夜必至の無茶ブリでもお受けすることが重宝がられてるだけかもしれないが。
国際会合の事務局業務では、参加者のロジ管理や遠足ツアー企画まで担当することになり、意外にも国際交流で散々やったことがデジャブのように役立った。
メディアセンターで海外メディアのわがままを叶えるのも、ムカシトッタキネヅカ的に経験値が底上げしてくれた。
つまりは、てんでばらばらだと思っていた点と点が、それなりに絡み合って道を作っていた。
でもそれらをさらに遡ると、小金井に繋がるのかも知れない。
(須藤)格くんがいうように、同じ冷蔵庫に入れられながら、無理にごった煮にされるでもなく、それぞれが良い塩梅で勝手個別に適温で存在してて大丈夫という実績を与えてくれたこと。
あるいは(稲岡)ミキや(西村)マリコがいうように、(具体的な記憶にはなくとも)いろいろな思索のタネだったり、意見を言い合える寛容だったり、かけ離れた経験をなんの掛値もなく持ち寄れる土壌を与えてくれたこと。
思えばいつだって頼りないリーダーやデスクのもとでナンバーツーの立場からやいのやいの言いたい放題やりたい放題やらせてもらうほうが本領発揮できてきたらしいことですら、廃部寸前なうえに不定期登校な某部長を戴いて副部長として何やらひたすら奔走していた経験が根底にあるのかもしれない。
ミツゴノタマシイなんとやらではないが、高校と言う原点は思わぬ強みを与えてくれていた。
ところで、この手のリレーの性質上、みんな何かと思い出ロード爆進がちになるだろうと思うので、少し話が逸れるが、なりゆきついでにひとつだけ。
高校とは関係のない、イロケもない話だが。
『ある程度の貯金はすべし』
私の場合は計画性があったわけではなく、たまたま高級な趣味がなかっただけだが、社会人最初のボーナスで両親に何やら贈った以外、その後のボーナスには一度も手をつけないままの10年だった。
お蔭で30過ぎで仕事を辞めたとき、働きながら転職活動するほど器用でもなかったのが主因とはいえ、次が決まってなくてもキッパリ辞められた。1ポンド250円が異常事態とも知らず呑気に留学もできた。
40過ぎてたまたま医療のお世話になったときも、費用を理由に目の前の選択肢を断念するという決断だけは迫られずに済んだ。
50目前にして親戚などの介護問題を見聞きするようになり、介護の質や施設のチョイスがエゲツナイほどカネに左右されるのを目のあたりにするようになった。
そもそもいま、自分からガツガツ仕事を取りに行くこともせず、「フリーランスです」と言うよりつい「無職です」と言ってしまうほど収入ゼロな月も少なくない呑気な生活を送れているのも、(最初の貯金だけで食いつないでるワケではないけれど)土台としては大きい。
いま現在の日々がミジメになるほど切り詰めては本末転倒だが、チリツモも最初の一歩から。同期たちはもうその分水嶺は通り過ぎてしまっているかも知れないが、子ども世代にでも、よくよく言い含めるべし。
いや、同期たちも、今からでも、少しずつでも、ぜひ。
さて話を戻せば、昨日、久々に何人か同級生らと会った。
久々だからと騒ぐでもなく、近況を訊かれるワケでもなく、そんなキャラでもないのにアタマの半分がピンクくなっててもmidlife crisis!?と心配されることもなければ大して驚かれもしない、そのみんなそれぞれだよねな温度感に多謝感謝。
そして、50の節目の年に貴重な振り返りの機会を設けて頂いたことと、ひとりもスタートラインに立っていなかったのにラスト2週間でリレーに持ち込むミキの行動力と組織力、そこに我先にとバトンを掴みに行くこの学年のノリと団結力に深謝。