『ハチマキと半纏』
西頼君からバトンを預かりました。14期生の淺間達雄です。
このICUHSの面々らしいバトンの流れに加えていただいて光栄です。僕の場合は専ら自分語りながら、一少年の在りし日の姿を、ご笑読いただきつつ思い描いていただければ幸いです。
◇ ◇ ◇
仮進級、仮進級、仮卒業という世の中を舐めきった成績で卒業の春を迎えた1994年の僕は、体育館脇の桜の樹(今はもう無い)の下で証書を握りしめて呆然としていたことを覚えている。
田村先生を始めとする先生方、寮監の伊藤周先生、寮母の羽生さん、先輩方、級友、同窓生、後輩たち、そして剣道部の連中の広い腕が無ければ、迎えられなかった春だ。
5,800km向こうのインドネシア共和国ジャカルタから日本国東京都小金井にある築50年風呂なし6畳台所付き家賃月25,000円の木造アパートの一室に転がり込んだ少年には、いざ親元を離れてみると、あまりに世界は茫洋とし過ぎていて、中学で確立したはずの自意識が揺らぐのは容易いことだった。
保護者の名誉のために申し添えると、風呂なし木造アパートに転がり込んだのは支援が足りなかった為ではなく、「ここなら座敷童に会えそうだ」と自ら決めた為である。会えなかったけど。
「達雄なら一人暮らしもしっかりやるだろう」という保護者の期待を見事に裏切る堕落した生活はその木造アパートから始まった。
学校にはHRと部活だけ顔を出し、後は寝るか読むか思索するか押し掛けてきた面々と騒ぐかPC(今や遺物とも言えるFM-TOWNS)をいじるかという毎日だった。
だが、そんな自堕落な少年のことを誰一人、先生方も含め、詰ることも、爪弾きにすることもなく、様々にご苦労をお掛けしたであろうにも関わらず、鷹揚に受け止めてくれたICUHSという空間とそこにいる人々は、今振り返れば、信じられないほどに有り難く、天地の恵みとも言えるものであった。
島本和彦の名作「炎の転校生」に感化されて首にハチマキを巻いて登校するようになると、級友や同窓生が各色のハチマキをプレゼントしてくれた。
我が蝸室には8色14本のハチマキがハンガーにぶら下がるようになり、出掛ける際はその日の気分で好きな色のハチマキを首に巻くという、ちょっと考えられない贅沢があった(それらのハチマキは卒業後に息子の体たらくに激怒した保護者に捨てられてしまった……惜しい)。
秋冬になれば紺の半纏を羽織って登校した。暖かくゆったりとした半纏は今もお気に入りであるが、首にハチマキを巻いて半纏を羽織って登校することを許す高校は、世界広しと言えどICUHSくらいであろう。
奇縁と好運に恵まれたのは環境だけでは無かった。誘われて剣道部に所属してからは女性不信(ICUHSの男女比を知らずに入学した)も治り、部長職まで預かり、小さかったけれどあの居心地の良いコミュニティは、僕を大分成長させてくれた。
とは言え、周囲に迷惑を掛けることは変わらずで、「淺間君『もし居たら』職員室まで来てください」という校内アナウンスが流れる時、当然のように僕はそこには居らず、剣道部の副部長が代わりに職員室へ走ってくれるという有様だった。
奇縁と好運は続いた。ICUHSの図書室で遭遇した谷口幸雄訳「アイスランド・サガ」は、原語で原著を読みたいという欲求につながり僕の進路を決めた。大学で出会ったスカンジナビア諸語を共に学ぶ面々とは腐れ縁が出来た。
在学中にネットのオフ会で出会った人と結ばれ、一女一男に恵まれた。その人とは生憎別れてしまったが、子どもたちとは割と頻繁に呑み歩いているので安心してください(?)。
さらに奇縁と好運は続き、ファーストジョブはMicrosoftに潜り込んでProject Managementを実践で学び、転職先のGunghoのゲーム制作でそれを活かせるという何とも素敵なスラロームを体感できた。
さらにさらに、取引先でインターンをしていた子(16歳差!)と縁が出来、同居を始めてもう11年が経つ。
僕は今だに、奇縁と好運に救われて、生まれ出でてから半世紀を超えようとしている。
そうして立っている今から過去を振り返る時、ICUHSというマイルストーンとそこで得られた経験は、まるで大樹のように、僕を見守ってくれている。
(了)
◇ ◇ ◇
……という訳で、このバトンは琴屋清香さんへ。読み手の方には、彼女のたどった星々と、今描かれている星座がきっと見えると思います。