14期生の稲岡美紀と申します。ふてくされた高校生だったのに大変僭越ながら、出遅れた14期のリレーエッセイのトップバッターを務めさせて頂きます。近況報告としては、21年間国際協力の現場で働いた後、昔からの夢だった鍼灸師に今年なりました。

高校で聖書を読んだ時に、ヨハネの福音書8章(文末に引用)がとても気になったのです。善悪の枠がとても明確で、「グレーゾーン」がとても小さかった年頃にとっては、なんで赦すんだ、罪の大小関係なく、悪いことは悪いんじゃないの?と。そして、自分は悪いことをしない大人になりたいものだ、と思いました。そして高校を卒業して30年以上経ちました。

最近、「コンプライアンス違反」の報道が続いています。これに限らず様々な矛盾を日々目の当たりにします。
「コンプライアンス違反」が許される人・業界があるなんてことはもちろん思わないです。でも実際にこうやって社会的に抹殺するような報道が増え続いていくと、「裁く側」は本当に清廉潔白なの?と思ってしまいます。
罪は許したくないんだけど、罪を犯さない人などいない、というのも真実、とだいぶ歳を重ねた私は思います。同時に、罪はやっちゃうもので仕方ないのだ、と開き直ってしまうのも違う。
「罪・善悪」と「罰・赦し/裁く・裁かれる」の考え方なのだと思いますが、日本人が「お天道様は見ている」とか、人以外のものに委ねたくなってしまうのもなるほど、と。

上記をSNSに書いたところ、ICUHSのクラスメートから色んなコメントが来て、キリガイっぽい議論になりました。少し編集して掲載します。当時のキリガイでこんな話をした、クラスメート同士で意見が出た記憶はあまりないのですが、こういう思索のタネを、我々は30年前にICU高校に蒔いてもらっていたのかな、と思ったのでした。アラフォーになって社会に揉まれた今だったら、有馬先生のお話も違う感じで入ってくるのでしょうね。

●罪は他人が裁くものではなく、自分の心と常に会話して自分の心が穏やかでいられるかどうか自分で判断するのが大切なのではないか。コンプラ違反した人がいたならば、他人は『その時のあなたの心は健やかでしたか?』と聞き、繰り返さないように仕向けてあげるのが人に対しての愛であり、同時に過ちに気づいてあげることが裁きにもなるかと思った。裁く側にも愛と寛容と忍耐が必要。
●『お天道様は見てる』って、人以外のものとかhigherナンチャラみたいな外への投影というより、まさに自分の心への問い掛けなのではないか。お天道様が何か擬人化されたわけではなく、お天道様から直接に罰せられる感じでもない(罰が当たるとは言うけれど)。それより自分が、それで恥じないで居られますかっていう問いである気がする。

「正しい」って何だろう、そして「正しく生きる」とは何か、という問いはずっと続きますね。
色々なことが不透明な昨今、国や民族や宗教を超えた人間としてあるべき姿の本質を見失わないようにしたいなぁと改めて思う今日この頃です。

【ヨハネの福音書8章】
1イエスはオリブ山に行かれた。
2 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりひとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」

次のエッセイのバトンは須藤格君に引き受けて頂きました。時間なくなっちゃってごめんね。よろしくお願いします。