ICUHSを卒業して早くも1年が経つ。
そのような中、親友からエッセイリレーのバトンを引き継いだ。このような貴重な機会を頂いたので、今回はICUHSを卒業して今に至るまでの経緯と、ICUHSで何を得たかという点に絞って語ろうと思う。
仙台で生まれた私は、幼少期をさいたま市で過ごした。幼稚園時代のことは今でも覚えている。幼稚園では、毎日ひたすら外で仲間たちと遊んで過ごし、先生たちを困らせるようなことを行うような子供だった。その頃の友達は今でも連絡を取り合い、定期的に会っている。その後、公立小学校に進学したが、自由で開放的な幼稚園とは正反対の束縛的な環境で三年間ほど過ごした。先生は厳しく、威圧的であったが、そのような中でも悪戯を繰り返し、生活態度は良くなかった。幸いな事に、友人には恵まれていた上に、学業では誰も敵わなかったため、後から見返してみると良い面もあった。また、この頃は病院に通うことが多く、漠然と医師に対する憧れもあった。小学校進学までは建築士になりたかったのであるが、3年生くらいになると臨床医になってみたいと思うようになっていた。
転機は4年生に上がるタイミングで中国の上海に移り住むことだった。厳しくて束縛的な環境から新たな環境に飛び込んだ。その当時の自分には後ろめたい気持ちなど微塵もなく、インター生活が始まった。アルファベットすら怪しいような英語力でインター生活を始めたが、思っていたよりも楽しいものであった。毎日サッカーをしたり、言葉が通じなくてもたくさんの楽しいことをして、1年も経たないうちに普通に英語の授業を皆と一緒に受けられるくらいに英語力を高めることができた。日本人もある程度いた上に、韓国人や中華系の人と仲良くなることができたりして、慣れてきた頃にはまた悪戯をして家に電話がかかってくるようなこともあった。
その後、Grade6に上がるタイミングで上海の中の別のインターに転校した。より規模の大きくて色々なバックグラウンドを持つ人が集まっている学校で様々な刺激を受けた。勉強もより本格的になってきた。昔から数学は好きであったため、ここでは競技数学を行うクラブに入ったりした。また、1つ目のインターの音楽の授業で始めたバイオリンをここでも続け、オーケストラに入って演奏をした。韓国人やヨーロッパの人がたくさんいる学校であったため、韓国人コミュニティに入ったり、ヨーロッパの人と仲良くなってたくさん遊んだ。
そんな中コロナパンデミックが起こり、生活が一変した。上海には比較的たくさんの日本人がいたが、知り合いは悉く帰国した。取り残された我が家族であったが、残るという選択をした。ゼロコロナ政策を行っていた当時の中国は、徹底的に感染者や濃厚接触者を隔離してゼロコロナを維持した。学校に行くにしても濃厚接触者でないことを証明したり、健康調査を行ったりなど面倒であった中、私は発熱疑惑で発熱外来に行く事になり、世界中がコロナで騒ぎ始めた初期の段階でPCR検査という謎の検査を受けて肺のCTをとった。今思えばかなり大袈裟な話ではあるが、良い経験になったと思う。このような経験は、公衆衛生学分野に興味を持ち始めたきっかけにもなった。前から漠然とあった臨床医という選択肢以外にもWHOで働くという道も初めて知った。
長々と高校入学までの話をしたが、ここからはICUHSについて語ろうと思う。高校は帰国して日本で通うことになりそうであったため、高校探しを行う必要があった。元々中国に引っ越した当初から、もう二度と日本の学校には通いたくないと思っていたため、高校探しも乗り気ではなかった。そんな中、ICUHSの説明会が偶々上海で行われたため、足を運んでみると、先生たちの話や学校の様子が思っていたよりも興味を引くものであった。学校見学にも実際に行くことができ、本当は上海に残りたいが、最悪ここでもいいかもしれないと思いつつ幸い入学することができた。
2021年に帰国して、いざ通い始めるとやはりインター生活とはだいぶ異なり、通学すること自体が憂鬱な時期もあった。しかし、数学の授業は唯一楽しかった。元から好きだった数学を成績や受験のためではなく、趣味として高めていくことができた。通っていくうちに、段々と生活に慣れていくことができ、面白い人と出会うこともできた。今となっては、ICUHSに通って良かったと思う。ICUHSは様々な出会いがある場所であり、たくさんの良い刺激を受けることができ、各々が自分の軸を持って活躍することができる環境であると思う。このような環境での出会いや生活を通して、本当にやりたいことを見つけることができたと思う。漠然と医師になりたいと思っていた自分が、臨床研究という道に進み、研究成果を社会に還元するというところまで見据えることができたのも、ICUHSでの出会いや学びがあったからであると思う。
結果的に、研究に力を入れている総合大学の医学部に進学することができ、生誕の地に戻ってきた。自分が生まれた病棟にも入ることができ、担当してくださった先生にも再会することができた。その当時は大学院生であったが、今となっては教授としてご活躍されていて、私が臨床に出る頃には、直接教わることになるという事に感銘を受けたりもした。そんな中、私はゲノム研究や疫学研究を始め、睡眠に関するテーマで研究活動を行っている。医学に関すること以外では、ドイツ語習得や、多様な環境での国際交流を行っている。国際的な教会にも定期的に通っていて、英語だけではなく、中国語を使う機会が少なからずあり、たくさんの刺激を受けている。また、数学に触れる機会が少なくなってしまったが、スタートアップでのインターンを通してAIエンジニアとして作業をしながらある程度数学には触れている。更に、仙台市が主催するアントレ研修のプログラムに参加して渡米することで、スタートアップ文化や研究の最先端を見ることができた。次にエッセイリレーのバトンが回ってくる頃には、PhDを取得して臨床の傍ら研究活動を行えていればと思う。
バトンを次に渡す前に、最後に一言、
海内存知己 天涯若比隣
今まで出会った友人や繋がりは、長い時間や距離を越えても繋がりを持ち続けることができ、友人との繋がりは物理的な近さだけではなく時と共に深まっていくものであるという言葉だ。人との繋がりを大切にして、「Carpe Diem」今を生きながら、教養を深めていきたいと思う。
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