これを書くためにICUHSのアルバムをめくると、自分がゴミ箱に入り、「好きな言葉」の欄に「それは言えねぇ」と書いていた。恐らく高校生の脳みそでは最大限に面白いと思ったのだろう。今、20年ぶりに好きな言葉を更新する。「人生無駄なことは一つもない」である。様々な人やものとの出会いに恵まれ、その全てが今の自分につながり、有り難さを感じる。
高校入学当初、名前を聞かれて「今川」と答えると、みんな当たり前に下の名前で呼び合い、カルチャーショックを受けた。この学校でやっていけるか自信を失ったが、テニス部に入部して、気持ちが落ち着いてきた。(今でもテニス部とは交友があり嬉しいつながりである♪)ICUHSの仲間達は、見た目や中身は関係なく、全ての人の存在を認め合っている。それが何とも居心地がよかった。周囲の目を気にしがちな青春時代に、自分らしく思いきり生きられたのは、最高に幸せであった。
高校時代の貴重な出会いは、美術の藤田節子先生だ。(今でもやり取りをして展覧会に伺っている)油絵を教えてもらい、50号の大きなキャンバスで自画像を描く経験もした。卒業後は、たまーーに絵を描き、将来「現代版富嶽三十六景」を作成したいと漠然と考えている。もう一つの大きな出会いは、担任の高栁先生である。(毎年年賀状で先生の手描きの干支を見ると心が温まる)進路面談で「小学校の先生になるため、学芸大に行く。」と相談した。その時「今から道を狭めるのはもったいないです。ICUに行って広い世界を見て、やっぱり先生になりたいと思った時にそっちの道に進めばいいのです。」と。先生のお言葉に納得して、ICUへの進学を決めた。お陰様で、受験勉強せずゆったりと高校生活を過ごせた。特にサイクリングにはまり、自転車旅が私のライフワークになった。社会人になってからも富士山まで行ったり琵琶湖を一周したりしている。
ICU大学では、女子サッカー部に入った。技術は無いが「専攻=サッカー」というほど生活の中心であった。2年間キャプテンとして、練習や試合の作戦を考える経験は、かけがえのないものだった。試行錯誤し、何度も大泣きし、その度に人と話し、より良い策を模索した。今でも迷った時は、誰かに相談するのが習慣となっている。また、部活の中でジェンダー・セクシュアリティ違和のある仲間と出会い、世の中への視野が大きく広がった。
卒業後はトイレメーカーに就職した。「全国転勤あります」に二つ返事したところ、配属先が北海道の旭川になった。営業範囲は日本一広く、稚内、利尻・礼文島、知床、富良野まで。片道5時間車で走ったり冬はマイナス20度が当たり前だったりと、大自然と向き合う世界。成果が出ないもどかしさや頻繁な飲み会、慣れない土地の生活に面食らった。ある時同僚から「道の駅スタンプ」収集を勧められ、それが私の趣味になった。休みの度に道の駅に行き、4年間で北海道全域104箇所全て(当時)を制覇した。今では1200個ほどある日本全国の道の駅の内、約400個を収集している。全国制覇が将来の夢だ。パイロットの桜が操縦した飛行機に乗って鹿児島へ行き、道の駅スタンプを集めたのは、最高に感慨深かった。
メーカーで4年間働き「いくら物が豊かになっても、人は幸せにはなれない」と気付いた。そして、先生を目指すと決意した。26歳春、東京に戻り、小学校免許取得のため通信制大学に入学した。余剰時間に一番に足が向かったのは、大好きなICUである。女子サッカー部に仲間入りし、大学の授業に潜り込み、第2の大学生活を謳歌した。
28歳春、小学校の先生になった。先生は、何とも楽しい仕事である。休み時間に思い切り遊び、美味しい給食を食べ、子どもたちの成長を見守り、喜怒哀楽する中身の濃い毎日。しかしその反面、子どもは純粋な心をもっているため、全てが見透かされていると感じる。適当な授業や心のこもらない対応、一瞬の判断ミスなどは命取りとなる。人としての総合力が問われ、力不足の自分は日々打ちひしがれる。2歳・4歳の我が子を育てながらの生活は目が回りそうだが、やってもやっても満足できない奥深い仕事は、実に面白い。昨年授業で、パイロットの桜夫妻を学校に招いた。同級生の活躍を、教え子に伝えられてとても誇らしかった。
このように(ここには書ききれないほど)多くの素敵な出会いが、今の私を形成している。これからも「無駄は買ってでもする」心意気でたくさんの経験をして、自分の幅を広げていきたい。
さて、次走者は、健朗だ。山手線を歩きながら山手線ゲーム(「24期を思い出す」のお題では9割の名前を思い出した!)をしたり、「2階から目薬」(7階まで成功!)にチャレンジしたり、有香とともにバカなことに情熱を注げる仲間である。東日本大震災の3月11日には「午後に函館で〜」と約束した後連絡が取れなくなった…振り返れば懐かしい。健朗4649!
<追伸>
24期の峯崎(渡辺)有里が2017年に病気で他界した。女子サッカー部でともに汗を流したかけがえのない仲間だった。病床で「高校も大学も楽しかったよね!」と笑顔で話していたのが最後の思い出である。有里の子どもが健やかに育つことを願う。