高校の思い出といえば、皆で並んでベランダでお弁当を食べたこと、窓の外に見える木漏れ日に見惚れながら聞いた授業、校庭のサッカーゴールの下でのんびり語り合ったこと、、、不思議とどのシーンを思い出しても晴れた青空で、清々しい気持ちになる。
高校ではよく芝生に寝転がって友人と空を見上げていたような気がする。
幼いころから空への憧れがあったので、大学卒業後は日本航空(JAL)に自社養成パイロットの訓練生として入社した。入社前の専門知識は一切必要なく、入社してからゼロから学ぶものだ。
当時JALではまだ自社養成の女性はおらず、私が入社した2008年度も約60人のパイロット訓練生の中で女性は私一人だった。
「女性一人で大変でしょう」と言われることも多いが、優しい仲間達は良い意味で私を同性のように扱ってくれて、訓練も無事に終えることができた。冗談で、「イケメンたちのなか紅一点で良いね〜!」と言われることもあるが、そんな良い思いはしていない。
入社後、2年足らずで会社が経営破綻したため、訓練が中断し、ようやく副操縦士になれたのは、入社後9年経った2017年のことだった。念願のパイロットになれたのは遅くなってしまったが、総合職としての経験は、飛行機一便を飛ばす為にどれだけ多くの人が努力しているかを身をもって学ぶ貴重な時間となった。
訓練を終えてパイロットになった後、私は全力で婚活を始めた。
パイロットの仕事は休みの日も勉強が必要で、日々の仕事も、一日に国内線を3本前後飛ぶので身体もヘトヘトになる。他の仕事の皆さんもそうだと思うが、強い意識と意志を持たないと、恋愛、結婚は面倒だ。
遠い遠い外国の人と結婚した方が、強い遺伝子を持った子孫を残せるだろうし、私は顔が平たいので、顔立ちのはっきりした外国人と結婚して可愛いハーフの子どもが欲しいなと思っていたので、海外旅行に出かけると優秀な外国人はいないかとアンテナを張った。
が、実際は、身近な先輩の仕事に対する熱心な姿勢に惚れて私から猛アプローチして結婚した。それはそれは、パイロットになる訓練と同じくらい頑張った。
国籍どころか、選んだ仕事まで一緒である、もっと言えば育った家族構成も。。。色が黒く、顔だちがはっきりしている夫はどことなく南米の方のような雰囲気で、その点は唯一未来予想図通りだった。(性格は細かく、日本人そのものだが)
ひとつのことに猪突猛進になる性格の私は、結婚出産後、未だパイロットとして復帰をせず、子育てに全力を注いでいる。息子が3歳になった今も、お腹の中にいる第二子のおかげで、お休みを延長できている。上の息子は私の期待とは裏腹に、私に似て顔が平たいがそれでも可愛くてたまらない。
パイロットという仕事に未練が無いわけではないが、今は、今しかできない「我が子の幼少期を身近で見守る」時間を選択している。
ところで、来年から年少になる息子の幼稚園選びが最近の夫婦の最大の悩み事だった。来春第二子を出産予定で、ふにゃふにゃの0歳児を自転車に乗せて通園するのは怖い。利便性をとって徒歩2分の幼稚園にするか、息子が3歳クラス(年少の一つ下のクラス)で現在通っている少し遠い緑豊かな幼稚園にするか。悩んで、悩んで、夫婦で出した結論も二転三転していた。
そこで私の頭に浮かんだのはICU高校の環境だった。高校受験を控えていた頃、両親が見つけてきてくれて、決して安くない学費を払ってくれたおかげで、今でも思い出すだけで心が温かくなる3年間を過ごすことができた。それは、ICUの緑豊かな環境、教職員方、そしてICUを選んで集まってきた仲間達が作り上げているものだ。
私は、我が子にも同じように豊かな経験をさせてあげたいと思い、親子で環境が気に入っている幼稚園に引き続き通わせたい旨を夫に伝えた。夫も、私の負担が増えるが私にその覚悟があるならと了承してくれた。ただし、疲れていても子どもたちに当たらない、という条件で。。。できるかな。
ひとまず、今までそうしてきたように、これからも目の前のことに一生懸命に取り組もう。
万葉や聡美が話してくれたように、自分も周りのみんなも健康である幸せを噛み締めながら。
とりとめの無い内容になってしまったが、私が「エッセイのテーマ決められない〜」とうだうだしていたところ、次の走者のあい子が「エッセイだからテーマなんて無くていいんじゃないの〜」と後押ししてくれたので、これで失礼させていただく。
あい子は高校時代のテニスのペアで、早朝から夕暮れまで寸暇を惜しんでは自転車でコートに向かい、一緒にラリー(打ち合い)をしていた。
運動神経が良いあい子は、私がどこに球を打っても、宙を舞いながら取りに行って打ち返してくれた。すごいショットが出た時のあい子の笑顔が今でも忘れられない。本当に楽しかったね。エッセイも、へなちょこを打ってしまったけどよろしく〜!