3人の親友から4番目のバトンを受け取りました。
私は、大学を卒業してから日本と海外を行き来する期間があったにも関わらず、今でも4人で誕生日プレゼントを交換したり、お互いの近況をシェアしたりできる友だちがいることがとても嬉しい。万葉からエッセイリレーに参加したいと連絡をもらい、バトンを受け取るまで、何を書くかいろいろと考えた結果、①ICUHSの思い出と②自分の卒業後から今までの近況を簡単に書くことにした。文章硬めです。
私は、ドイツからの帰国子女でICUHSを第一希望として受験した。現地校でドイツ語メインだったので、入試試験もドイツ語を選択した。ドイツ語だった故にICUHSに入学できたと思う。中学3年生の時にドイツから帰国し、一年間は日本の中学に通った。勉強も学校生活もすごく大変で一年間とても苦労した。ICUHSに入学して、今までの生活とは違い開放感を感じ「自分の求めていたものだ!」と実感した。どうしても入部したいと思っていたテニス部は入部したい人が多いため事前に30日間(記憶違いかも…)の筋トレを達成した人のみ入れるという基準が設けられていた。何が何でも入部したい!という気持ちが強く、3キロくらい(テニスコートから大学構内を走るコース)のランニングと何種類かの筋トレを頑張った。そして念願のテニス部に入部した。毎日、テニスをすることがとても楽しかった。練習後にみんなで近くのコンビニに立ち寄ってから帰るのも楽しみだった。当時の私のお小遣いは、3000円(母がお金に厳しくて…)。しかも携帯代込みだったので、コンビニで買うものも値段重視で買っていたと思う。楽しいテニス部の生活も約二年間だった。引退後は大学受験に専念するため、予備校へも通った。でも受験生活が嫌になり、最後まで頑張れなかった。第一希望の大学の推薦は内申点が足りず…内申点が足りた別の大学の推薦に受かり、早めに受験を終えた。
大学では、勉強したかった「保育と福祉」の勉強をした。卒業と同時に保育士を取得した。保育の仕事はいつからでも始められると思ったので就職せず、海外ボランティアのため幼少期に生活していたドイツに行くことにした。一年間のボランティアはドイツ国際平和村というところへ行った。すごく濃い1年だった。内容を書くと長くなるので割愛する。帰国後2年間、保育園で働きまた海外へ出ることを決めた。青年海外協力隊員としてネパールに行くことになった。ネパールという国のことは全く知らなかった。念願だった、僻地といわれる村に2年間住み数多くの貴重な経験をした。住んでいた家は、土壁の家で家の中に水栓はなく、井戸水を運ぶ生活だった。野菜は基本隣人の畑にあるものを譲ってもらい食べていた。村人はみんな優しく、不便なこともあったけど私にとっては満足のいく2年間だった。いつかまた長期で生活したいと思える国だった。
ネパールから帰国後NPOで働きたいという気持ちが強くなり、保育園で働きながら就職先を探した。そしてネパール支援をしている非営利の一般社団法人と出会い、そこで3年弱働いた。ネパール以外にもウクライナや福島も支援していて、出張で何回も通った。33歳まで結婚相手が見つからず、出会いもなく独身でいる覚悟だった。そんな時、この職場で上司の息子を介して結婚相手を見つけることができた。そして旦那はネパール人。青年海外協力隊後に「いつかまた長期で生活したい」と思えた国が私の第二の故郷になり、20年後子どもたち三人が巣立った後移住できることを夢見ている。
まとまりのない文章。私にはこれが限界…
次のバトンは、私がどうしても入部したかったテニス部の仲間に渡します。聡美、よろしくね!