近しい友人であるミリがマジョリティとマイノリティの境界を考えていたそのとき、少し南下したところにある地域で、私もまた別の境界を彷徨っていた。当時、私はチェコの美術大学で「Kapliczka Otaku: Kaplička je moje nabíječka i formička v životě!」(ビデオインスタレーション作品) という修了制作展の準備に取り組んでいた。そしてフィールドワークのためにポーランドに足繁く通っていた。

 Kapliczka (カプリチカ) というのは日本で言う祠や神棚のようなもので、石膏やメタル、木材、石材、レンガなどいろいろな材質、形、大きさのものがある。中にはイエス、マリアやその他の聖人の像、蝋燭、造花、写真、絵などが飾られていて、古くより旅人や住人の安全と健康を祈って、道路脇、四ツ辻、民家の壁、庭先、木、アパートの中庭、教会の敷地内などに設置されてきた。ポーランドのランドスケープにおいてアイコニックな存在でもある。

 フィールドワークの最中、ポーランドでは部外者の見物と捉えられぬようキリスト教にシンパシーを感じている私として漂い、チェコに戻ってくると「私はクリスチャンではない」という前置きをつけて話すようになっていた。私はチェコの無宗教の人の輪にも溶け込みたかったし、信仰心の表明は人を怖がらせるのではないかと思っている節もあった。

 旅に出ると少ない日で 20km、多い日で 45km の道々を歩きカプリチカを写真に収め出会った人に話を聞いた。クリスチャンではない自分が、カプリチカに対して真剣に向き合っているということを、ただひたすらに歩くという行為で証明しようとしていた。旅の計画を立てる段階である程度カプリチカのありそうな地域を下調べして向かうものの、現地に着くまでどんなカプリチカに出会えるのかわからない点において、回を重ねるごとに「鼻」が鍛えられていくのを感じた。その結果、二股道や複数の村の標識が目の前に現れたとき、より脈のありそうなルートを選び取れるようになっていった。

 そしてカプリチカの旅には、予定調和の中の予定不調和というか、そこに何かがあることは分かっているものの、いつも何かしらの予想もしなかった出来事が起こるという程よい不透明感があった。

 ある冬の日、ウクライナとの国境近くの村を歩いていたとき、国境警備隊に止められて職務質問を受けた。話の途中で、カプリチカを探していることを伝えると、同じ方向だからと公用車で隣村まで送り届けてくれた。その車内で「Nie jesteś pępkiem świata!」(君は世界のおへそではない = 世界は君を中心に回っているわけではない) という覚えたてのフレーズを披露したら少し笑ってもらえた。

 また別のとある夏の日、たまたま訪れた町でふらっと入った観光案内所にいた係の人に、カプリチカを探していると伝えたら、自分の知り合いにカプリチカに詳しい人がいると言って連れてきてくれた。後に私の師となるその人は 20 年近く地元の 500 近いカプリチカを観察し、余暇に修繕活動までしている筋金入りのカプリチカ教授だった。そのときの縁で後に彼の元でインターン生としてカプリチカを追い続けることが叶った。

 何者かになりたくて、でも何者にもなれなくてという青年期にありがちな悩みのようなものを長らく抱えていたため、カプリチカという存在に出会えたことで、やっと私にもお熱を上げられることが見つかったのだと非常にうれしかった。私はこれが私の poslání だと思った。チェコ語で povolání (職業) は「呼ばれる」もので、poslání (使命) は「送られる」ものだという。誰に何のために送られたのかは今でも定かではないけれど、数年前にプロジェクトのために滞在したザコパネという街で偶然が重なってカプリチカに導かれたのは幸運な出来事だったとしか言いようがない。

 ここで、約 10 年前共に数学のクラスを生き延びた同志のさくらに次のバトンを渡そうと思う。もしもあの頃に戻るとしたら、通学中に睡眠と覚醒の境界を彷徨いながらチャート式を解くのはやめにして、ぼんやりうたた寝でもしたいなと思うのだけれど、さくらはどうかな?