たみよ、一女の楽しい寮生活を思い出させてくれてありがとう! 振り返ってみると、後の人生に大きく影響する大切な出会いをたくさん与えてくれたのがICU高校だったとしみじみ思います。たみよと同じく地方素朴学生で、帰国生に会うのも、なんなら生の英語が飛び交う場にいるのも初めてだった私にとって、寮生活は初日から衝撃でした。そして受験勉強の余勢で英語のプレイスメントテストの点が取れてしまったのか何なのか、L3に入ったことで人生最大のカルチャーショックを受けました。おかげで大学生になって初めてアメリカに交換留学したときにはさほど新鮮味を感じなかったほどです。英語だけの授業など受けたことがなく、宿題が何なのかすらわからない。そんな私を隣の部屋のゆかちゃんがやさしく助けてくれました。本当にありがとう!! どうしてこんな優秀な人と同じクラスなんだろうと半泣きになりながら、なんとかついていこうとする日々。一般生として、中学までのように英語“を”勉強するのではなく、英語“で”勉強するというのは、パラダイムシフトのような強烈な体験でした。それを高校生のうちに叩き込まれたのはありがたいことだったと、後になって痛感しました。ちなみにゆかちゃんと言えば、週末の夜ごはんを森永のホットケーキミックスを焼いてすまそうとする私の隣の電気コンロでステーキを焼いていた優雅な姿も忘れられません。
たみよにビスコを常食していたことを覚えられていましたが、私は大抵月末になるとビスコとヤクルトの計70円ランチが定番で(売店のおばちゃんの憐れみの微笑みが思い出されます)、ぎりぎりまで食費を削らざるを得ない状態でした。それは単なる自業自得、CDやライブにお金がかかったからです。好きなバンドが東京で2公演あったりすると、コーンフレークの箱からちょっとずつ食べてしばらくしのぐこともありました。部屋の壁を埋めるポスターがニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックやコリー・ハイムのさわやか系から急速に長髪化していったのは、たしか映子のおばあさまのお宅で観たザ・ブラック・クロウズのミュージックビデオがきっかけでした。結果的にロック好きが高じて洋楽雑誌を作る会社で働くことになるので、それは後の仕事につながる出会いでもありました。
初めは通訳と翻訳専門の国際部で採用されたので、英語をがんばってきた甲斐があったというものです。そして編集部員になってからは、立ち合いや通訳の同行がいらないので取材相手と二人きりで話ができるという特権(?)を勝ち得ました。ついにザ・ブラック・クロウズのリッチとの電話取材がかなったときには、取材後に即破棄するにしても本人の携帯番号を渡されてどぎまぎして、高校生の私に教えてあげたかった…生きていればいいことあるから! シアトルでの対面取材で謁見できたパール・ジャムのエディを頂点に、好きなアーティストの多くに話を聞けることになろうとは、高校生の私に言っても信じてもらえないかもしれません。信じられない未来の際たるものは40歳になって同級生と結婚することだけど、それはまた別のお話。
15歳で親元を離れて大変だっただろうと言ってもらえることもありますが、本当に申し訳ないくらいさびしくありませんでした。むしろ長いお休みで寮のみんなと離れ離れになるときの方が涙ぐんでいたくらいで…。この年になって思い返すほどに、恵まれた環境で勉強させてくれた両親と兄への感謝が募ります。渋る母を説得してくれたのは兄だったと、だいぶ大人になってから知りました。今はフリーランスで細々と音楽系の翻訳やライターなどの仕事を続けていますが、ICU高校に行かなければたどり着かなかったところにいるのは間違いありません。
一女も、陸上部も(私がマネージャーになったのは、最初に寮で同室になった桃子先輩のお誘いがあったからです!)、卒業して30年以上経っても会えば楽しいおしゃべりが止まらない素敵なつながりが続いていることが嬉しいです。そして在学中よりも卒業してから再会して仲良くなった友達代表の(大滝)優子にバトンを渡します! 優子とは6年前、益子に住む町田君に会いに行く車中でお互い上野動物園で生まれたパンダのシャンシャンに夢中だとわかって意気投合して以来、一緒に足繁く上野に通い、ひたすら並んでパンダを愛でる、を繰り返す仲になりました。優子のエッセイ楽しみにしてます!