エッセーリレーのバトンをつなげていただき、ありがとうございます。43期の髙田心音です。テーマはなんでもいいということで、練りに練っていたら2ヶ月も経ってしまい、同窓会運営の方々には大変ご迷惑をおかけいたしました。
私たちの世代は、入学当初からオンライン授業、リトリートは中止、九月に対面の入学式、部活に入れたのも九月から、活動の制限がかけられ、昼休みは黙食、三年間マスク着用、毎朝の検温チェック、ハグしたら注意される。自由を制限された高校生活でした。
私は、第一志望に落ちたこともあり、なんのためにICU高校に入ったのか分からず、毎晩、毎晩、「学校に行きたくない」と思い、泣いていました。退学も考えたこともあります。入学したことを後悔し、憂鬱な気分でICU高校生活の大半は過ぎていきました。
これを読んでいる皆さんは、きっとICU高校が好きな方なのかなと思います。私も今はICU高校が好きで好きでたまりませんが、嫌いで嫌いでたまらない期間を経験している人間でもあります。
じゃあ、いつから「好き」に変わったのか。それは、高校三年生の時です。私は先輩に言われるがまま、課題探究という授業を取りました。そこでは、「月経とそれをとりまく社会のあり方」について関心を持ち、主体的に学ぶ機会や、先生や周りの友達、大学生、教授、社会人など、様々な人たちと対話をする機会がありました。
現在でも、私はその経験を軸にアクティビストとして活動しています。大学で学んでいる理論と、社会問題が起きている現場を往復する日々です。
ICU高校にはそのような人生の小さなきっかけを頂きました。いや、「頂いた」というのはおかしな表現かもしれません。ICU高校にはそのようなきっかけ、未来の原石のようなものがそこら中に落ちているんです。それを一個一個、逃さず、拾い集めること。それが本来の「学び」のあり方だと思います。
今となっては、ICU高校が嫌いだった私は何かを期待して生活していたのかもしれません。ICU高校は何も与えてくれないと気が付いたときに、真にこの学校の良さが分かるようになるのだと思います。
このエッセイを学校を称賛する形で終わらせることになってしまいました。正直、悔しい気持ちです。ICU高校が嫌いだった時は間違いだったとは言いません。その時の痛みは確かに残っています。それを気の迷いとして受け止めることは、「時間」という概念の権威で、私の気持ちを消し去る魔法をかけることになるからです。
ですので、ここはあえて曖昧な形で終わらせていただきます。