中学3年の初夏、通学圏内にあるいくつかの高校から教員がやってきて、自分の通う中学校の生徒に対して開かれた各高校の学校説明会。同級生と共に、もしそのまま地元を離れなければ入学することになっていたであろうN高校から来たある高校教諭の説明を聞いていたが、次第に腹が立ってきた。当時自分が住んでいたのは時に「陸の孤島」と揶揄されるようなド田舎で、数えるほどしか高校がないために行きたい高校を選ぶ余地なんか皆無。そしてそんなことはその教諭だって百も承知である中、N高校の説明をしながら「どうせ他に行くところなんて無いのだし、君たちも皆、N高校を受検するのだろう」という心の声がダダ漏れであった(と、少なくとも自分は感じた)ためである。
説明会が終わる前には「こんなところ、死んでも行くもんか」と固く心に誓った自分は、近くで他にマシなところが無いか探したものの、そもそも選択肢がない陸の孤島には見つからず、仕方がないので自宅からの通学圏内を離れて関東圏で寮があるところを探していたら、これもまたそれほど選択肢としては多くない中でICUHSの存在を知った。誰の何の話を聞いたかはさっぱり覚えてないものの、初めて三鷹の森に足を踏み入れたICUHSの学校説明会で「ここなら3年間退屈することはなさそうだな」という印象だけを頼りにそのまま第一志望となった。(思い返すとあまりに高飛車だけど、、)
個性の強すぎる受験問題をなんとか乗り越えて、合格発表の日。発表の時間からだいぶ遅れて到着したため閑散としたバスロータリーには、同じく33期生として合格したような雰囲気の親子が1組いたのですが、その出で立ちがあまりに「西洋人」そのものだったため合格の喜びに浸る間もなく、今日は一般受験者の発表日のはずなのにどうなってるんだ、と(まだそんな表現があることは知る由もないですが)最初の”G-SHOCK”を体感しました。入学後も大小さまざまなショックを浴び続け、説明会の時も印象が間違いではなかったと思える刺激的な日々が続き、秩序なんかあったものではなくしっちゃかめっちゃかだけどもなぜか不思議と居心地が悪いというわけではなく、また、各々が何かしらの秀でた才能を持っていながら他人と比較することが少ない環境下で、開放的で充実した日々を送ることができていたように思います。
ただ、今振り返るとこの環境が成立しているのは学生たちがぶっ飛んでいるだけではなく、そうした状況を許容しているもしくは半ば諦めているICUの教師陣の存在も大きいのだろうと思います。というかなんなら教師陣の方がぶっ飛んでいて(嘘です、担当科目に対する愛情が強すぎて)、特に入学当初は圧倒されまくりでした。が、気が付くとそんな状況にも慣れている自分がいて、一方的に教えを乞うだけではなく、生徒の未熟な思考や発言に対しても正面から向き合ってもらったという体験は、ピラミッド型で堅固な上意下達のシステムができあがっている企業に勤めてみて改めて貴重な機会だったと認識しています。間もなく創立50周年を控え、中途半端に歴史が積み重なってきたことで当時よりも余計なしがらみが増えているのではないかと勝手に心配になったりもしますが、本校のアイデンティティであるこの独特でカオスな環境の保護のため、ICUHSの教壇に立つ方々には引続き広い心で許容乃至は諦めて見守って頂ければと思います。余計なお世話かもですが。
思いついたことをテキトーに取り留めもなく書いてきてしまいましたが、そろそろまとめに掛からないとマズいなと思いつつ、先日参加したクラス同窓会で、当時の担任がずっと預かっていてくれた「将来の自分に宛てた手紙」が配られた時のことを思い出しました。受け取るまでは書いた内容はおろか書いた事実さえ忘れていましたが、今改めて何か書いたとしても似た内容になりそうで、10年前から大して変わっていないことにこれで良いのだろうかと自問しつつも、同じく過去の自分からの手紙を読んでいるクラスメイトの表情や雰囲気を見ていると、それぞれが「我が道を行く」自由な校風のような空気感が甦り、どこかに感情を置き忘れてきたのでは?とディスられることの多い自分でも、当時と変わらぬ居心地の良さを感じていました。タイムスリップするとしたら?という質問には「別にどっちでも良いけどな」と思うことが多いですが「過去に戻るとしたら高校時代」と思い直したひと時でした。
多くの貴重な出会いの機会を与えてくれた高校と、これほど天邪鬼な人間にも付かず離れず接してくれたみなさんと、ついでに入学の最初のきっかけをくれた当時のN高校の教諭にも感謝しつつ、結局まとまりのない駄文になってしまいましたが、人生初のG-SHOCKをかましてきた、今でも飲み仲間として相手をしてくれている友人にバトンを渡します。