2021年の夏に開催されたオリンピック・パラリンピックで選手アテンドの仕事をした。カラオケなんてトンデモナイ!と思っていた私がバスの中でみんなの前で臆面もなく瀬戸の花嫁を歌い、男子選手たちと冗談を言い合い、できれば人についていきたいタイプなのに、さあみんな私についてきて!とリーダーシップをとる。高校時代の私からしたら想像もつかない姿だ。だけど信じがたいが、今年はなんと還暦。60年も生きてくれば、いくらボーっとしている私でも、思いもかけないことをするようになるのですね・・・。

私は数年前からフランス人(そのほかフランス語圏の人々)を対象に観光ガイドの仕事をしている。20数年間フランス系公的機関で働いてきたが、ここはかなりのブラック企業だった。毎日深夜残業、何年働いても裁量権は一切なし、フランス系なだけあって好きな時に好きなだけ休みが取れるのが唯一のプラスポイントで、日本人同僚と密かに「奴隷農園」と命名するほどの職場だったけれど、他に能もないのでダラダラと勤務していた。

50歳になって、このまま定年までいるのはあまりにもあんまりだ、と思い、後先考えずに退職。そして、会社員時代の知り合いに半ば強引に誘われ、ガイドの仕事を始めた。

ガイドは、日本のありとあらゆる事象を説明するのが仕事なのだけど、自慢じゃないが日本のことは何も知らない。そもそも歴史が大の苦手。一般の日本人は小学校、中学校、高校と繰り返し日本史を勉強し、受験で日本史を選べばそこでまたインプットされ、いくら「全然覚えていない」と言っても基礎はあるはず。私は小5から中3まで海外にいたため、高1の日本史が生まれて初めて触れる日本史。もう壊滅的だった。覚えられん!信長、秀吉、家康の順番も最近になってようやく言えるようになったレベルだ。そんな私がガイドなんてしていいのだろうか?聞けば、ガイドの多くはお茶やお花を嗜み、和服で案内する人もいるという。こっちは帰国子女で、その後長い間フランスを日本に紹介する仕事をしてきたのだ。興味を持ってきたのは常に海外で、日本のことは地理も歴史も文化もアニメなどのサブカルチャーも知らない。それでも日本人なのだから、さすがにフランス人よりは日本に詳しいだろう。何とかなるはず。いや、何とかしなくては・・・。

生まれて初めてのツアーは忘れられない。3ヶ月ほど一夜漬けの勉強をして臨んだ。空港で御一行様をお出迎えして、向かった最初の観光地は奈良の東大寺。数日前に生まれて初めて行ったばかりだ。さあ、まるで500回は東大寺を訪れたことがあるような素ぶりで、勉強してきたことを爆発させるのだ!おっと、その前に入場券を配らなくては・・・。しかし、2人足りない。チケットを手にした人たちはどんどん入っていく。こっちは2枚余ったチケットを持ったまま入るわけには行かない。迷子の2人を探さなくては!ところが東大寺の駐車場と入場券売り場はとても離れているのだ。そこを全力で走って何往復もし、挙げ句の果てに派手に転んで肘をすりむき、観光客のおばちゃんたちに「ガイドさん、血が出てるよ」なんて言われたが、構っている場合ではない。しかし、走り回って探しているうちに再集合の時間が来てしまった。結局、グループには来日して初めての観光地の大仏をガイドの説明なしで観光させてしまった。そして入場できなかった2人は怒り心頭だろう。ああ、ツアー初日の1カ所目の観光地にして、私はクビだ、と心が重い。だけど、なぜか見られなかった、と文句を言っている人がいない。何の事は無い、残る2人もチケット無しで、ちゃっかり入場してちゃんと拝観していたのだ。フランス人はたくましい!

勉強した成果を披露するどころじゃなかった初回ツアーだが、以来、大小さまざまなハプニングに見舞われつつ何とかガイドの仕事を続けている。会社を辞めた時は2度とフランス人とは仕事をしたくないと思ったが、バカンス中の彼らは最高に楽しく、笑いが絶えない。茶道の大家やお坊さんなど私よりはるかに日本に詳しい人にもたくさん出会った(そんな人たちを前に茶道や禅を説明しなくてはいけない私を想像してみてください)。それにしても、10日なり2週間なりを濃密に一緒に過ごして、大半の人とはもう2度と会わない、というのは本当に不思議だ。なので、毎回一期一会という言葉を噛み締めている。最終日、空港に向かう時にこの言葉の意味を説明し、「今日の日はさようなら」を歌うと泣き出す人もいる。サラリーマン時代に培った奴隷体質を持ってお世話をすれば感謝されることも少なくない。建築や日本庭園や歴史の説明も必要だけど、国と国の繋がりは、結局行き着くところは人と人の関わりなのだな、と感じさせられる時である。そして、父にガイドになること伝えた時に「それは良い仕事だ」と言って喜んでくれたことも思い出す。今は認知症で会話も難しくなったが、外交官だった父にほんの少しだけど近づけたかも、と思うとそれも少し嬉しい。

人との出会いは宝物のように大切。還暦を迎える今、多くの人との出会いによって今の自分があることを実感する。それを可能にしてくれている自分の仕事は最高だと信じて、足腰鍛えてずっと働き続けたい。最近は(大河ドラマのおかげで)家康や秀吉が誰かもうっすら分かってきたしね。

一期生・矢田部まり