domesticな社会人生活の中で海外生活やICU高校での経験が活きたこと
1期生5人目のピーマン(シンガーソングライター・新沢としひこくんの高校時代のニックネーム)からいきなりバトンを渡されてビックリ。はて、何を書こうか?と悩んだ結果、自分自身の経験を踏まえて標記のテーマで書いてみることにしました。というのは、僕は帰国子女であることや英語力を武器にして生きていくという選択肢を捨てて就職したにもかかわらず、35年の社会人生活の中で実は当時の経験がとても役に立っていたのではないかと思われる場面が多かったなと、最近になって思うからです。
僕は、幼稚園から小3までアメリカとカナダの現地校、小3の2学期から中1まで日本の公立校、中2・中3の2年間は香港日本人学校を経て、ICU高校には「J」の枠で入りました。そこで中学時代を各国の現地校で過ごした個性あふれる「バリバリの帰国子女」(僕からはそう見えた)のパワーに圧倒され、「自分は帰国生といっても限りなく一般生寄りだな」ということを痛感していました。
僕が小3でカナダから帰国した1971年(昭和46年)はまだ帰国子女自体が珍しく、学校では奇異な目で見られ、放課後残って平仮名から教わり、日本の小学生のノリに馴染めずに胃潰瘍を患ったこともあったので、「なんで親の仕事の都合で子供がこんなに苦労しなきゃいけないんだ!」と親を恨んだりもして、子供ながらに「この国で生きていくためには普通の日本人になるしかないんだ」という悲壮な決意をして無意識のうちに「普通の日本人」になろうと努力していたような気がします。なので、高校に入った頃にはアメリカやカナダでの生活は既に遠い過去となっていて、2年間の香港生活を経ただけの「一般生寄りの帰国生」になっていたのです。そして大学も日本の一般的な受験生と同様に一浪して日本的なマンモス大学に入り、卒業後は「国際性」とは対極にあるような、転勤がなく、地域に根を下ろしている鉄道会社に入りました。
では、海外と関わりを持つこともなく、英語を使うこともない環境の中で、どういう点で当時の経験が役立ったのでしょうか? 3つのエピソードから考えてみました。
【エピソード①】
鉄道会社というのは、駅員・乗務員・技術職員など現場の社員が圧倒的に多く、今でこそ現場でも大卒が増えましたが、僕が入った頃はほぼ高卒(一部中卒)という環境で、大卒は少数の幹部候補生だけという感じでした。そのような環境なので、大卒というだけで浮いてしまう社員も少なくない中で、大卒メンバーの中でも最も異質と思われた僕が意外にも誰よりも人間関係に苦労することなく、すんなり受け入れてもらえたのです。
【エピソード②】
本社配属後は広報が長かったのですが、新聞の紙面を賑わすような不祥事により会社がマスコミから責められる状況になって矢面に立つ状態が続いた時も意外に記者の方々と良い関係を築くことができ、厳しいと各社から恐れられていたベテラン記者の方から「広報マンの鑑」とまで絶賛されてしまいました。どうやら、そういう緊迫した場面においても、会社寄りになりすぎずに冷静に対処していると思われたようです。
【エピソード③】
現在は東京都や複数の鉄道会社が出資している第3セクターに出向しており、そこではプロパー社員のほかに東京都や複数の鉄道会社から出向している人たちと日々「異文化交流」しているような状態なのですが、これまでは「常識」だと思っていたことが通用しない環境にストレスを感じて衝突してしまう人も少なくない中で、何となく上手く対処できているようで、ほとんどストレスを感じることなく楽しく仕事をさせてもらっています。
ということで、「国際性」とは無縁な社会においても、常識や価値観が異なる人たちと関わる場面はたくさんあり、そういう時に、子供の頃から「多様性」をあたりまえのこととして感じ取り、「正解は一つではない」という意識が身に付き、柔軟な考えで折り合いをつけることが自然にできるようになっていたことや、難局を難局と思わない、良い意味での鈍感さ(=たくましさ?)が実は大変な「強み」になっていたんだろうと思うのです。
ICU高校の卒業生には、自分が育った環境について考えさせられたり、identityについて悩んだりした経験がある人が多いと思いますが、僕が自分自身の経験から思うのは、どんなに厳しく辛い経験でも、それが自分の血となり肉となっているので、「無駄なことなんて一つもない」ということです。益々生きにくい世の中になっていますが、海外生活やICU高校で培われた「柔軟性とたくましさ」で乗り越えていってほしいと思います。もちろん僕もまだまだ頑張ります。