高校3年生の秋。私は漫然とした日々を過ごしていた。受験勉強に身が入らず、下北沢の「ロフト」に一人立ち寄り、コーヒーを飲み、店員と音楽の話をして帰宅する毎日だった。最寄りの駅から自宅までは長い坂道。元気なく歩いていた。

 そんなある晩、オレンジ色のチラシが私の目を引いた。坂の上までずっと、どの電柱にも貼ってある。近所の大学祭の案内で、11月3日にRCサクセッションが来るという。ガリ刷りのA4紙に写っている男は、髪を逆立てて睨んでいた。それが忌野清志郎で、名前を知っている程度だった。何日かの後、私はチラシを一枚剥がして家に持ち帰った。自分の部屋で、このパンク男との睨めっこが続いた。

 文化の日。コンサートが日中だったことを幸いに、私は家を抜け出した。ギリギリになっての決断で、会場へ走った。当日券は二階席しか残っていなかったが、それを買い求めた。

 観客はRCサクセッションの登場を待ち切れず、ステージに向かって「キヨシロー」と叫んでいた。暗い講堂には、エネルギーが渦巻いていた。そして現れた男は、小柄で痩せていて、唐突に「レッド・ゼッペリンで~す!」と絶叫した。その一言で、私はこのバンドにぐっと引き寄せられた。演奏された曲はまったく知らなかったが、まわりの客たちと一緒に騒ぎ、その日は束の間の解放感を味わった。

 それから4ヵ月。私は、卒業コンサートに合わせてRCのカバーバンドを組んだ。わざわざ買ったスリムな赤いズボンをはき、白いTシャツを同級生や教員に落書きでぎっしり埋めてもらい、化粧をした。「お前らみたいな生徒はもう出ないだろうから」と、数学科のH川先生が記念写真を撮ってくれた。

 ところがわれわれの出番直前に、ミキサーがショートした。担当のO野が飲んでいたコーラのコップをひっくり返したのだ。私は憮然としたが、ドラマーのI東になだめられ、生音で演ることになった。「トランジスターラジオ」、「雨上がりの夜空に」、「スローバラード」と、気合を込めて全力疾走した。ギタリストのS藤は、一曲目で弦を二本切っていたそうだ。

 それ以前からバンドを組んでいたが、学友からの評価は「すごいね」であり、「上手いね」ではなかった私の歌唱力。その晩は、「声が清志郎に似ていて、すごいね」と、点数が多少上がったのが嬉しかった。

 RCサクセッションは、フォークバンドとしてデビューし、ヒット曲もあったが、事務所とのトラブルなどがあり、不遇の時代が長かった。けれども、失意のどん底で観たレゲエ映画「ハーダーゼイカム」で一念発起し、試行錯誤を繰り返しながらロックバンドに変身し、渋谷の「屋根裏」などで総立ちライブを繰り返すようになっていく。私が大学祭でかれらと出会ったのはこの頃だ。映画「バニッシングポイント」のような、退路を断ったものの疾走感があった。

 権威あるものなんかぶっとばせという勢いと、「今までしてきた悪いことだけで有名になったら、誰がボクを知ってる?」と、自問するナイーブさの両面を持ち合わせていた。日本でロックが不良の音楽と言われた時代に、それを唯一無二の形で体現したバンドだった。

 私は、大学生になってからも音楽三昧の生活が続いた。一方、RCサクセッションは大ブレイクして、武道館を満杯にするバンドとなっていった。ファン層が広がる分、ポップなアルバムをリリースするので私は失望したが、その反面、発禁歌を出し続けたアーチストでもあった。世間が右傾化しただけ忌野清志郎の言動が目立った訳だが、2009年に逝くまで反骨精神を捨てなかった人だったと思う。

 私が社会人になってからも、いくつかのエピソードがある。息子がまだ幼稚園にも上がらない頃、「トランジスターラジオ」を聞いて、お父さんの声にそっくりだと言ったことは、宝物のような思い出だ。親しかった仕事の関係者が自殺した時は、「ヒッピーに捧ぐ歌」が私を慰めてくれた。

 それから、これはつい数年前のことなのだが、ある講演会で主催者から「おまえの話を聞いて、高校時代の先輩の忌野清志郎を思い出した」と言われた。なんでも、母親同士が知り合いで交流があったらしい。その方も、若い頃は音楽で身を立てることをめざしていた。詳しい理由は聞けずじまいだったが、講演で「ダメなものはダメ」と一貫して主張したからか? ありきたりの言い方だが、もうこの世にいない忌野清志郎は、私の中で生きているのだ。

 だからもどかしいのは、コロナ禍のせいで、高校時代の仲間らと再結成したバンドが活動休止中であること。バッテリーはびんびんだから、早く発車したい。

一期生・浦田誠